イスラエルという名称
新キリスト教辞典に「イスラエル」という記事があります。この項は、富井悠夫(とみいやすお)氏によって記されたのですが、現在87歳、新潟県出身。神戸改革派神学校卒業、ヘブル大学留学、カルヴァン神学校短期研修。日本基督改革派教会・堺みくに教会牧師、神戸改革派神学校教授をされていました。氏は、「イスラエル」という名称の起源について、またこの言葉の適用について、次の通りのべておられます。」
1. この名は族長ヤコブが神の使いと格闘した時に、神の使いがヤコブに「あなたは神と戦い、人と戦って、勝った」と言って与えたもので(創世32:28)、ヘブル語のサーラー(争う)とエール(神)の組み合わせである。ヤコブと神との争い(サーラー)に関しては、ホセア12:3,4にも述べられている。ヤコブの霊的側面を表す呼称として意味深い。
2. 適用.族長ヤコブ、すなわちイスラエルの子孫に対して、「イスラエル人」という呼称が用いられるようになり(出エジプト1:7以下)、以後南北に王国が分裂するまでは、ヤコブの12人の息子たちの子孫によって形成される12部族全体を指す呼称となった。(出エジプト12:51、民数1:2,16,13:3,申命1:3,Ⅱサムエル5:1以下)。
イスラエルという名が聖書外で最初に出てくるのは、前1220年頃のエジプト王メルネプタの戦勝記念碑である。南北に王国分裂(前931/前930年)後は、南の2部族(ユダとベニヤミン)はユダ王国とよばれ、残りの北の10部族はイスラエル王国とよばれた。(Ⅰ列王12章以下、Ⅱ列王、ホセア1:1、アモス1:1)。
前722/前721年の北王国滅亡から前587/前586年の南王国滅亡にいたる期間の預言者の言葉には、イスラエルとユダが再び統一されて、真のイスラエルとして再形成されるという表現が見られる(イザヤ11:12,13,エレミヤ3:18,50:4,エゼキエル37:16-22,ホセア1:11)。
そして神はイスラエルの神として正しく認められる時が来るというのであるが、このことはバビロン捕囚から帰還したユダヤ人共同体において意識され(エズラ2:70,3:11,6:16,17,10:1,ネヘミヤ9:1,ゼカリヤ8:13,マラキ1:1),選民意識の現れとしてペルシャ時代、ギリシャ時代を経てローマ時代へと続いていき、新約聖書中では民族として、また信仰による神の聖なる民の名として出てくる。それ以後の歴史の中では、ユダヤ経典の中で、ユダヤ人の総称として用いられていたが、1948年5月15日の建国以来、正式に国家の呼称とされ、宗教とは関係なくイスラエルの市民はみなイスラエル人である。
民族としての歴史:
族長時代;族長時代の聖書資料は創世記11章の終わりから、50章までであり、ここにアブラハム、イサク、ヤコブとヤコブの12人の息子たちの物語が展開され、エジプト滞在へと続いている。カナンの地でイサクが生まれ、ヤコブが生まれ、ヤコブはイスラエルという名を与えられ、12人の息子たちとともにカナンの地に住むが、飢饉をのがれるためにエジプトへと下り、そこに定住する。しかしやがてその子孫は奴隷の状態になる。この族長時代がいつ頃であったのか、明確ではないが、大体前2000年から前1500年の中期青銅器時代と考えられる。イスラエルの族長たちの名と同類の名がこの時代のメソポタミヤやエジプトの文書中に見られ、また前15世紀のヌジ文書によって族長時代の慣習に光が与えられている。前12世紀になって初めてラクダが大量に家畜化されたという主張から、アブラハム物語は時代錯誤であるという説に対しても、考古学的な証拠は、小規模なラクダの家畜化がかなり古くから行われていたことを示しており、ペリシテ人についても、前1190年以前にも、交易目的でパレスチナやエジプトに往来していたと考えられる。ところで、族長たちが飢饉のためにエジプトに下ったのがいつであったのかという問題は、出エジプトの年代とともに、正確ではない。しかし、注目すべき一つの点がある。それは、前1720年から1570年の約150年間、エジプトはセム系の人種ヒクソス支配の時代であったということである。出エジプト1:15に出てくる助産婦の名シフラが、前18世紀の奴隷の名簿に見られるという。またヨセフ物語を理解する上で、アジヤ系の支配者の時代を背景として考えた方が、わかりやすいと言えよう。ヨセフ物語によれば、イスラエル人が定住した場所はゴシェンの地で(創世47:27)、エジプトの首都アバリスの近くであり、王宮に近かった。そしてヨセフの時代に飢饉を契機に農地の買収による土地改革が行われたことも、ヒクソスによる新しい支配を示唆する資料と言えよう。族長時代の正確な年代決定の困難性とは別に、創世記が提供する族長物語は、アブラハムに対する神の召しと祝福の繰り返し(12,13,15,17,22章)から明白なように、イスラエルの選びと、カナンの地を嗣業(相続地)として与えること、及びアブラハムの子孫による全地の祝福ということが主題になっており、これは以後のイスラエル民族の全歴史を貫き展開していく主題である。モーセがエジプトの地にあるイスラエルの民に神の選びと約束を思い出させるために創世記の編集を行ったことが、イスラエル民族を選びの民として独自の方向に歩ませることになった。
出エジプト時代:出エジプトの年代決定は結論の出ない議論として続けられており、三つの見解がある。第1は前1450年ごろとする見解で、Ⅰ列王6:1を文字通りに計算することから引き出される。すなわちソロモン王が主の家の建設を始めた前965年頃より、480年前に出エジプトがなされたとするのである。
第2は前1290年ごろとする見解で、出エジプト12:41の「430年が終わったとき、ちょうどその日」に基づいている。すなわち「ちょうどその日」とはヤコブがエジプトに入った記念日のことで、その日から数えて430年目に出エジプトをしたという理解である。
第3は前1250年以後とする見解である。このうち第2の見解がいくつかの点で有力視されている。前14世紀のテル・エル・アマルナ文書に出てくるパレスチナでのハビルの存在は、民族としてのへブル人ではなく、前2000年も前から古代近東でハビル、アビルとして知られていた社会的階級であるとの理解が今日ではなされている。またナイル・デルタ近くにあったヒクソス時代の首都タニス・アバリスが前1300年から前1100年までの200年間「ラメセスの家」と呼ばれたということや、前1220年頃のメルネプタ戦勝記念碑にイスラエルという名が初めて出てくることから、出エジプトはセティ1世(前1308‐前1290)かラメセス2世(前1290‐前1224年)の時と思われる。出エジプト1:11の「ピトム」「ラムセス」が再建され、拡張されたという記事も、この見解を支持しているようである。
シナイからモアブにいたる40年間はモーセにとって苦難の連続であったが、出エジプト19:5,6の神の言葉の実現を目指し、約束の地への旅が続けられた。この40年間に、出エジプト記から申命記に至る文書が作成され、神の民としての教育・訓練・指導がなされた。特に申命記は、カナンの地に入ろうとする新しい世代への手引書であり、警告と励ましの言葉としてモーセの死の直前に語られたものである。荒野の40年間は神と民との婚約時代であった(エレミヤ2:2)
ヨシュア・士師時代:(略)
統一王国時代:(略)
分裂王国時代:(略)
捕囚と帰還時代:(略)
中間時代:前331年にペルシャ帝国がアレクサンドロスに征服され、ギリシャの支配下におかれるようになった時から、ローマ時代に移ってヘロデ大王の世(前37-前4年)にイエス・キリストが生まれるまでの期間は、ユダヤ民族にとって内外共に試練の時であり、ヘレニズムの影響を受けた時代であった。前300年から前200年の間になされた注目すべきユダヤ人の作業の一つとして、旧約聖書のギリシャ語訳が挙げられる。また前200年から前100年の間の出来事として、ユダ・マカベアの勝利(前165年)とハスモン王朝の始まりがあり、サドカイ派、パリサイ派、熱心党などの発生とユダヤ教の確立が挙げられる。そして新約時代への道が備えられた。この時期に黙示文学も多く作られるようになった。
イエス・キリストの誕生(前6年?)時代は「ローマの平和」と言われた時代であり、ユダヤも属州として総督のもとで国家の形を保っていたが、1世紀後半から2世紀にかけて、ユダヤ人の激しい反ローマ闘争が起こった。第一次ユダヤ戦争(66-74年)と第二次ユダヤ戦争(131-135年)に分けられる。
第一次ユダヤ戦争(66‐74年)
ローマの属州ユダヤエで、独自の民族宗教であるユダヤ教の信仰を続けていたユダヤ人は、ローマの支配に対する不満をつのらせ、66年の春に反乱を起こし、ユダヤ戦争が始まった。時の皇帝ネロは将軍ウェスパシアヌスを反乱鎮圧のために派遣した。ウェスパシアヌスはガリラヤ地方を反乱軍から奪回し、イェルサレムに迫った。その途中、本国で皇帝ネロが失脚し、69年7月にウェスパシアヌスは東方に駐在する軍隊の支持を受けて皇帝に就くこととなり、アレクサンドリアを経てローマに帰った。ユダヤ戦争の指揮を引き継いだその息子ティトウスはイェルサレムを7ヶ月にわたって包囲攻撃し、70年9月に陥落させた。
反乱はその後も一部で続いたが、74年春に死海の南岸に近いマサダの反乱軍要塞が陥落し、終わりを告げた。イェルサレムの陥落 70年3月、ティトゥスはイェルサレム包囲戦を開始した。ローマ軍は攻城機を使って5月までに2つの外壁を破壊したが第3の城壁に阻まれた。第3の城壁を壊して抜けたのはようやく9月だった。7ヶ月にわたる攻城戦のすえに、イェルサレムとその神殿は破壊され、住民は殺されるか、奴隷として売られるかということで終わった。ローマ軍兵士はイェルサレムのユダヤ教神殿から宝物を掠奪してローマに持ち帰り、ローマには勝利を記念する記念門に、兵士が神殿を掠奪する様を彫り込んでいる。
第二次ユダヤ戦争(131‐135年)
2世紀に入り、再びユダヤ人の反ローマ闘争が活発になった。ローマ皇帝ハドリアヌスは五賢帝の一人で膨張政策を改め、帝国の安定をはかっていたが、その晩年に至ってイェルサレムに自己の家名を付けた都市に衣替えし、ヤハウェ神殿を破壊してローマの神であるジュピター(ユピテル)の神殿を建設しようとした。このことはユダヤ人の怒りを買い、131年に第2回ユダヤ戦争といわれるユダヤ人の反ローマ闘争が再開された。
この第2回ユダヤ戦争で反乱の先頭に立ったのは、バル=コクバ(星の子)とい呼ばれた力と人格に優れた人物であった。一説には、ローマがユダヤ人に対して割礼禁止令を出したことに対する反発であるとも言う。
戦いはパレスチナ全土に広がり、一時はイェルサレムを占領して神殿を復興し、ローマからの解放を記念して貨幣も鋳造している。反乱は3年ほど持ちこたえたが、ハドリアヌスはユリウス=セヴェルスをブリテン島から呼び戻し、大軍をイェルサレムに派遣、装備に優れたローマ軍がイェルサレムを再び占領、反乱軍は掃討され、135年に指導者バル=コクバも捕らえられて処刑されて終わった。この出来事は五賢帝時代の汚点の一つとなり、ローマの衰退の始まりを示すものでもあった。 同時にこの戦争はパレスチナにおけるユダヤ人の最後の抵抗となった。ローマ帝国のもとでイェルサレムは再び破壊され、新しい市街地にはユダヤ人はいっさいの立ち入りを禁止され、ユダヤ人の多くは地中海各地に離散(ディアスポラ)していくこととなった。
メディナト・イスラエル
ユダヤ人は離散の民として、ローマ帝国内から世界各地へと出ていったが、聖書の民としての存在は隠されることはなく、その独自性によって人類に貢献するとともに、不動産を持たない民として不遇の扱いを受け、ユダヤ人が強制的に住まわされた居住区であるゲットー生活を余儀なくされた。
特にナチス・ドイツによる第2次大戦時の迫害は、600万人のユダヤ人が殺された。パレスチナに祖国建設をとの願いは、テオドール・ヘルツェル(1860-1904年)によって、シオニズム運動として組織化され、パレスチナへの移住がさかんになった。パレスチナには、ユダヤ人不在の間、アラブ人が定住しており、定住者との問題が発生した。この問題解決は世界各地に植民地をもつ英国にゆだねられたが、同国は1922年以降1948年までに委任統治を終え、1948年5月15日午前0時11分に「メディナト・イスラエル」が建国された。
霊によるイスラエル:旧約の預言やパウロの手紙の意図は、メシヤなるイエス・キリストの初臨と贖罪の事実を中心としていることを覚える必要がある。旧約の預言はキリストの初臨による罪の赦しと神との平和を指したものであり、パウロの意図も、キリストを信じる信仰によるイスラエル人の救いということにある。「イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく」(ローマ9:6)、「ユダヤ人とギリシャ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。」(ローマ10:12)との言葉に示されるように、キリストを信じる者が真のイスラエル、霊によって生まれたイスラエルであり、神に選ばれた民である点を正しく把握するなら、民族的特権が一時的であり、政治的な現象も救いとは無縁であることが理解できよう。民族としての選民イスラエルの中にもう一つ、キリストを信じる霊のイスラエルという選民がある。それはキリストをかしらとする教会へと召され、地上の諸民族とともにキリストを信じる信仰共同体を構成するものである。
離散ユダヤ人;これはパレスチナ以外の地にあった、ユダヤ人を指す語である。これらユダヤ人の大部分は、捕囚の地に残留することを選んだものであった。旧新約の中間時代には、パレスチナ以外に住むユダヤ人の数が、パレスチナに住む者のそれよりも多くなった。彼らはそれぞれ開化した世界、バビロン、アッシリヤ、シリヤ、フェニキヤ、小アジヤ、ギリシャ、エジプト、北部アフリカ、ローマの主要都市のすべてにおいて、ユダヤ人の強固な植民地を形成していた。その3大離散地域は、バビロン、シリヤ、エジプトであった。キリスト時代には、エジプト在住のユダヤ人は100万人を数えた。またダマスコとアンテオケにも相当多数の人々がいた。その至る所で、彼らは会同と聖書とを持っていた。このように神の摂理によって、ユダヤ人は彼らの罪の罰のために異国に捕囚となりながら、かえって、彼らが散らされていた書国民の福祉に貢献するところがあった。彼らはそれら諸国民に思想的影響を与えたが、彼らもまた諸国民から思想的感化を受けた。
キリストを迎える準備:旧約聖書は,へブル民族を通じて全民族にメシヤを来たらせるために神がこの民族を存立させられたことの物語である。また旧約聖書は、来るべきメシヤへの賛歌でもある。しかもこの賛歌は、低く、取留めなく、おぼろな調子で始まるが、時を経るにしたがってその調べは強さを増し、近づきつつある王を待つ、明瞭で、熱烈で、豊富で、歓喜にあふれる旋律となって行く。その間に、神は摂理の御手をもって、諸民族に備えさせられる。ギリシャはアジヤ、ヨーロッパ、アフリカの諸文化を統合して1個の世界共通語を確立していた。ローマは全世界を一大帝国とし、ローマの道路はそのあらゆる地方に延びていった。諸国の離散ユダヤ人は、各地に会堂を建て、聖書を堅持して、メシヤへの期待を各地各国に知らせていた。このようにして、神は諸国民の中にキリストの福音を宣べ伝える道を供えられたのである。