マルコの福音書

マルコの福音書
15:40また、遠くのほうから見ていた女たちもいた。その中にマグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、またサロメもいた。 15:41イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。15:42すっかり夕方になった。その日は備えの日、すなわち安息日の前日であったので、 15:43アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。ヨセフは有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。 15:44ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いて、百人隊長を呼び出し、イエスがすでに死んでしまったかどうかを問いただした。 15:45そして、百人隊長からそうと確かめてから、イエスのからだをヨセフに与えた。 15:46そこで、ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納めた。墓の入口には石をころがしかけておいた。 15:47マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスの納められる所をよく見ていた。16:1さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。 16:2そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。 16:3彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。 16:4ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。 16:5それで、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。 16:6青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。 16:7ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」 16:8女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
  マルコはイエスの死に際して、「ガリラヤの女たち」の存在を強調しています。3名の女とは、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフの母であるマリヤ、そしてサロメです。15:41イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちです。このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいました。
  最後までイエスにつき従ったのは、これらの女たちであり、弟子たちではなかったのです。少し前には、イエスを裏切り、否認し、逃げ去った弟子たちがいました。イエスの遺体を引き取り墓に埋葬したのは、弟子たちではなく、アリマタヤのヨセフでした。あの洗礼者ヨハネが殺されたときには、(洗礼者)ヨハネの弟子たちがすぐに遺体を引き取ったのに、それに比べると、イエスの弟子たちはなんと情けないではありませんか。口ではイエスと一緒に死んでもいいなどと勇ましい発言をしていたくせに、その弟子たちの影も形もないではないですか。
  弟子たちは、イエスを裏切り、否認し、逃げ去っていました。イエスの埋葬された場所をじっと見つめていたのは、ガリラヤの女性たちでした。
16章の1節、3節、7・8節はマルコによる編集と考えられます。
以下の文章はマルコ以前に復活物語を書いた者がいて、その人の作業ではないかと思われています「16:4ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。 16:5それで、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。 16:6青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。 」しかし、4節の「非常に大きな石」、5節と6節の「驚いた」「驚いてはいけません。」、6節の「ナザレ人イエス」の表現は、マルコが手を加えたものと考えられます。

マグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤの二人の女性が、繰り返し描かれています。この二人の女性が。イエスの復活に関して、主人公となるのです

「あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。」の個所は、マルコ本人ではなく、エルサレム教会のケリュグマ(*)であると考えられます。マルコは復活の事実のみを報告していると考えられます。

 比較のために、第一コリント15章4節を見てみましょう。
「15:1兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。 15:2また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。 15:3私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、 15:4また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、 15:5また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」

マルコは、コリント人への手紙の「信仰告白」部分をかなり、明瞭に意識しており、「復活」をすでに完了した歴史的事実と考えることに反対していると思われます。マルコにとって、復活するのは、「キリスト」(第一コリント15.4)でも『主イエス』(ローマ10.9)でもなく、「十字架につけられたナザレ人イエス」でした。この「ナザレ人」という表現には、かなり衝撃的で否定的な言わば犯罪者的なイメージが含まれていたのではないでしょうか。「マタイ」と「ルカ」は、いずれもこの「ナザレ人」という表現を慎重に避けようとしている感じがします。そして「ペテロ」はこの「ナザレ人」であるイエスを否認しています。
  ペテロを中心とする弟子たちは、自分たちは復活のイエスと出会ったといっています。そしてその復活体験を基にしてエルサレム教会を形成しています。しかし、「復活」とは決して過去に起きた歴史的事実ではなく、将来における人間の可能性なのです。エルサレムなどにいつまでもとどまっていても、決してイエスに出会うことはないのです。イエスはガリラヤに行くのだ。ガリラヤにおいてこそイエスと出会うことができるのです。
  ガリラヤにおいてイエスのように生きること、そのような活動の中でこそ、まさしくイエスは「復活」するのです。イエスに従う人間が、イエスのような活動を現実に展開する中で、イエスはまさしく「復活」するのです。
マルコによる福音書は、マルコがわざわざ記録した、次の言葉で終わっています。
「16:8女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」

このことを忘れるべきではありません。
ケリュグマ(*)
ギリシア語で宣教の意。動詞形は (宣教する) で,新約聖書においては8回出てくる用語である。 エヴァンゲリオン(福音) を目的語とする場合が多い。名詞の ケリュグマは新約中には少い語であるが,近年,福音の宣教がその最も重要な役割の一つであった原始教会の事情にかんがみて,新約聖書より知られる原始教会の基本的宣教内容をさす術語となった。