三浦綾子著 「母」について

本日は、三浦綾子氏の「母」について書きます。作品は読みやすく、一気に読了してしまいました。
解説は、久保田暁一氏ですが、これもわかりやすい解説ですので、多少省略を入れて転載させていただきます。この「母」は1992年(平成四)三月に書き下ろしの作品として角川書店から出版された小説です。1933年は長野で、共産党系教員などの一斉検挙が始(教員赤化事件)まりました。三浦さんは、手段を選ばない人権抑圧と徹底的な思想統制によって、国民を戦争へと駆り立てた権力犯罪の犠牲になった人々の悲劇を取り上げ、社会の不条理を厳しくえぐり出しています。


小林多喜二(1903-1933)は、当時の特高警察の拷問によって虐殺され、二十九歳四か月で命を閉じるという、痛ましい犠牲者の一人でした。多喜二は1933年2月20日に逮捕され、その日のうちに、虐殺されました。(当局は死因を心臓麻痺と発表しました)
  「母」は、権力の不正と戦い献身的な活動をした多喜二の生涯と人間性を、母親セキの目と口を通して語っています。それと共に、セキの生涯及び母親としての愛情と苦しみと悲しみを語るのです。しかし、三浦氏がこの作品を書くに至ったのは何故なのか。書く情熱と力をいかにして持つことができたのか。著者は「あとがき」において、この作品を書くに至った動機と経過を明らかにしています。それによると、著者が『母』を書いたのは夫、光世氏の勧めによるものであった。しかし、多喜二と共産主義をよく知らなかった著者は困惑を覚えたといいます。その戸惑う著者に光世氏は、「多喜二の母は受洗した人だそうだね」と言った。その一言が著者の心を動かし、取材を始めたそうです。

しかし資料を調べる過程で著者の心を捉え、突き動かしたのは、多喜二の家庭が「あまりに明るく優しさに満ちていたこと」および「多喜二の死の惨めさと、キリストの死の惨めさに、共通の悲しみがある」という思いでした。


「もし多喜二の母が、十字架から取りおろされたキリストの死体を描いた『ピエタ』を見たならば、必ずや大きな共感を抱くに違いない」と、三浦氏は書いている。さらにそれに続けて、「多喜二の母として、多喜二が属していた共産党という団体を、多喜二を愛するが故に愛していたという立場になら、私も立てるような気がした」と。
  ここで私が特に注目したいのは、罪なき身でありながら十字架にかけられて召天したイエス・キリストの死と、多喜二の死の惨めさに共通の悲しみを見た三浦氏の視点です。

 ちなみに、パリのルーヴル美術館にあるアンゲラン・カルトン作『アヴィニョンのピエタ』は、十五世紀フランス絵画の最高傑作の一つとされており、その絵には、福音記者ヨハネとマグダラのマリアを両脇にした聖母マリアが、十字架上で亡くなったイエスを膝にのせて、じっと悲しみに耐えている姿が描かれている。そうした視点は、キリスト者作家としての三浦氏ならではのものである。そして、多喜二の母がまだ受洗していないことが分かった後にも書く情熱と力を失わず、三浦氏が「感動のうちに書き終えることができた」というのは注目すべきことだと思う。


「母」は、長女チマの嫁ぎ先の家に身を寄せていた八十八歳の多喜二の母セキが、自分の思いを秋田の方言なまりの言葉で人に語り聞かせる形で書かれている。多喜二の母セキは、決して戦闘的な母親ではなかった。どこでも家族を愛し、多喜二を信頼して生きる、素朴で働き者の母であった。
  多喜二の家庭は底抜けに明るかった。セキが語る物語は、セキの多喜二への全面的な信頼と愛情および、多喜二の優しさが深く刻み込まれて展開している。多喜二の優しさは、家庭を救うために身を売らねばならなかったタミを、当時教員の初任給が四十円から四十五円といわれた大正十四年に五百円の金を工面して(ボーナスと友達からの借金で)身請けし、自由な身にしたことなどに表れている。そうした多喜二に、セキは全面的に信頼を寄せたのである。

作中の次の対話に注目しよう。
「母さん、おれはね、みんなが公平に、仲よく暮らせる世の中を夢みて働いているんだ。小説ば書いてるんだ。ストライキの手伝いしてるんだ。恥ずかしいことは何一つしてないからね。結婚するまでは、タミちゃんにだって決して手ば出さんし・・・・・だから、おれのすることを信じてくれ」
そう言ってね、わだしが、
「多喜二のすること信用しないで、誰のすること信用するべ」って言ったら、うれしそうに笑っていた。

  この対話に母子の血の通った信頼関係と愛情および多喜二の純情さが、端的に示されている。だが多喜二は、社会の不正をただすために作品を書き、共産党員として活動するが故に銀行はクビになり、投獄もされ、最後には築地の警察署で特高に虐殺された。遺体を自宅に引き取った時、多喜二の身体は拷問のために痛ましく変形していた。セキはかたる。
  「布団の上に寝かされた多喜二の遺体はひどいもんだった。首や手首には、ロープで思いっきり縛りつけた跡がある。ズボンを誰かが脱がせた時は、みんな一斉に悲鳴を上げて、ものも言えんかった。下っ腹から両膝まで、墨と赤インクでも混ぜて塗ったかと思うほどの恐ろしいほどの色で、いつもの多喜二の足の二倍にもふくらんでいた」
  セキの怒りと嘆きは大きかった。気が狂うばかりに苦しみ、生涯にわたって多喜二の死がセキの脳裏から去らなかった。( 神も仏もあるもんか )とも思った。
「 わだしはねえ、なんぼしてもわからんことがあった。多喜二がどれほど極悪人だからと言って、捕えていきなり竹刀で殴ったり、千枚通しで、ももたばめったやたらに刺し通して、殺していいもんなんだべか。警察は裁判にもかけないで、いきなり殺してもいいもんなんだべか。これがどうにもわからない」
  セキが吐いたこの言葉は、重く胸に迫ってくる。それは民主主義を完全に否定し、人権を無視した者への重い告発の言葉である。そこに私は、著者三浦氏の、多喜二を虐殺したような人権抑圧と思想統制によって、国民を戦争の道へと駆り立てた権力者への怒りと批判の目を感じるのである。
「母」には、こんな話が出てくる。
ある時なあ、近藤先生(牧師)が二、三人の女の信者さんば連れて遊びに、来てくれた。四角いお盆ほどの大きな本ばもってきてな。「ここにキリスト様の一生が書いてありますよ。絵だからむずかしいことはありません」って言って、キリストさまが、でっかい星の光っているその真下の馬小屋で生まれた絵だの、羊飼いがその馬小屋に羊たちばつれてお祝いに来てる絵だの、一枚一枚、「これがヨセフさま」「これがマリヤさま」「これがイエスさま」「これが天使」「これが牛」「これが馬」なんてね、それはそれは親切に聞かせてくれたの。そしたらね、イエスさまがね、貧乏な目の見えない人の目をあけてあげた話や、不思議な話や、足の悪い人ば直してあげた話や、癩病の人を見る間に直した話や、次から次から出てくるの。そしてね、驚いたことに、直してもらった人は、みんな貧乏人ばかりなの。たまには金持ちの人も直してやったけど、イエスさまは身体の弱い人を馬鹿にしたり、貧乏な人を嫌ったりしないのね。
  わだしは、多喜二が聖書ば読んでたことが、これでよっくわかった。とにかくね、イエスさまは貧しい人を可愛がって下さったのね。そのイエスさまがゲッセマネの園っていうところで祈っていた時に、警察だか、役人たか、棒っこもって来た人たちに、引っ張られて行ってしまったの。ユダという裏切り者が手引きしたのね。わだしは、ここでも多喜二のことを思い出した。多喜二もスパイの手で警察につかまってしまったからね。そしてイエスさまは、大急ぎで裁判にかけられたのね。イエスさまが何悪いことしたというんだべ。貧乏人ば憐れんだり、病人を直してやったりしただけだべさ。「お前は神の子か」って言われて、「そうだ、あんたの言うとおりだ」って言ったのが悪いって、十字架にかけられるのね。両手両足に五寸釘打ちこまれて、どんなに痛かったべな、どんなに苦しかったべな。だども、たまげたことにイエスさまは、誰をも呪わんかったのね。「神さま、この人たちをゆるしてあげてください。この人たちは、何をしているか、分からんのですから」と言って、槍で胸を突かれて、亡くなられたのね。それからね、死んだあと、むごったらしい傷だらけのイエスさまば・・・・イエスさまば・・・・お母さんのマリヤさんが、悲しい顔で抱き上げている絵があったの。手と足に穴があいて、脇腹に穴があいて、血が出て、むごったらしい絵なの。

  わだしはね、多喜二が警察から戻ってきた日の姿が、本当に何とも言えん思いで思い出された。多喜二は人間だども、イエスさまは神の子だったのね。神さまは、自分のたった一人の子供でさえ、十字架にかけられた。神さまだって、どんなに辛かったべな。
  だけど、人間を救う道は、こうした道しか神さまにはなかったのね。このことは、いきなりすっとはわからんかったども、イエスさまが、「この人たちをおゆるし下さい。この人たちは何をしているのか、わからんのですから」って、十字架の上で言われた言葉が腹にこたえた。わたしだって、多喜二だって、「どうかこの人たちをおゆるし下さい」なんて、とっても言えん。「神さま、白黒つけてくれ」ってばかり思ってた。近藤先生は、「神さまは、正しい方だから、この世の最後の裁判の時には、白黒つけて下さる。お母さん、安心していいですよ」って、わだしの手を取ってくれた。そん時わだしは、なんかわからんが、神さまってかたが、わかったような気がしたの。
  え?この大きい紙さ書いたの誰の字かって?ああ、これわだしが書いたんだよ。多喜二が監獄に入った時、手紙書いてやりたくて字ば習ったの。ひらがなばかりだどもね。それでこの讃美歌も書けたわけ。この次、近藤先生が見える時まで、そらでうたえるように練習しようと思ってるの。毎日、これ見てうたってるの。題はね、「山路越えて」っていうんだと。讃美歌は、文句も節も西洋人が作ったものが多いそうだけど、これは日本人が節も文句も作ったもんだと。うたってみれってか。あんたがたも一緒にうたうべ。え?やっぱりわだし一人でうたえってか。そうだね、死んだ時一人でうたって神さまの所さ行かねばならんからね。じゃ、うたってみるか。
ちょうどご詠歌に似てるどもね。
*********************
やまじこえて ひとりゆけど
主の手にすがれる みはやすけし
松のあらし 谷のながれ
みつかいの歌も かくやありなん
峰の雪と こころきよく
雲なきみ空と むねは澄みぬ
*********************近藤先生がな、「この歌わかりますか」って言ったことがあった。ようはわからんども、何となくわかる。わだしが死んで、一人とぼとぼ歩いていくんだども、なんも淋しくないのね。イエスさまの手をつかまって、イエスさまと一緒に天の国さいくからね。そんなことをわだしが言ったら、近藤先生ね、「それだけわかれば、百点満点です。生きてる時も死んだ時も、イエスさまと一緒だってことわかれば、イエスさまの立派なお弟子さんですよ。

  セキは1961年(昭和36年)5月10日、心臓発作のために急逝し、小樽シオン教会で近藤治義牧師によって葬儀が執行された。小樽の党の者に勧められて共産党に入党したセキではあったが、長女のチマが行っていた教会の牧師や教会員とも親交し、生前、葬儀は教会で行ってくれるように近藤牧師に強く頼んでいた。またセキは、牧師から讃美歌404番「山路越えて」を教えられて、たえず口ずさみ、神に書いて壁に貼ってもいた。そのようなセキがキリスト教にひかれたのは、近藤牧師の優しさと良き導きによるものではあったが、セキの胸を強く打ったのは、キリストの十字架上の痛ましい死を描いた絵を見て、キリストの死に多喜二の死を重ね合わせて考えた時であった。ある日、セキはその絵を近藤牧師から見せてもらったのである。そしてセキは、他人の罪を引き受けて十字架上でむごたらしく殺されたイエスの姿に涙し、神の子イエスの死の意味を理解しようとしたのである。多喜二の拷問による死を、キリストの死と重ね合わせたセキの思いは、三浦氏自身の思いでもある。

  そして、セキがキリストを慕って心の安らぎを得、しかも亡くなる五時間ほど前に、近藤牧師が偶然、セキを訪ねていることに、三浦氏は「神のみ旨の深さ」を思ったのである。三浦氏はキリスト者の作家として、キリスト教にかかわったセキの心中に共感と感動の熱い目を注ぎ、セキと多喜二の人間像をユニークな視点から鮮やかに書き込んだのである。と同時に、三浦氏は、多喜二を虐殺したような暗黒の時代と社会を再びもたらしてはならないという祈りを込めて、この作品を書き上げたのである。私は、三浦氏のその祈りを、読者の方々が文中から深く汲み取ってくださることを願うのである。
(了)