「海嶺」 三浦綾子 角川文庫
三浦綾子の小説「海嶺」は実話をもとにした作品である。1982年(天保三年)11月、知多半島から出航した千石船宝順丸が、遠州灘で難破する。14人の乗組員のうち、若い岩松、久吉、音吉の3人は、1833年末~1834年初頭(1年2ヶ月後)奇跡的に北アメリカのフラッタリー岬に漂着する。豪胆な岩松、明朗快活な久吉、心優しい音吉の3人は、現地の住民(インディアン)に捕らえられ、偶然にも彼らの窮状を知ったイギリスの商社・ハドソン湾会社の厚意で、帰国の途が開かれる。大きな期待を胸にイギリス軍艦イーグル号に乗り込んだ3人は、幾多の困難を乗り越えロンドンの地に降り立った。ゼネラルパーマー号でマカオに送り届けられた岩吉(岩松改め)、久吉、音吉は、祖国の地を踏む日を待ち続けていた。彼らは日本で堅く禁じられているキリスト教に出会い理解する中で、過去原罪と自分たちを支えてくれた異国の人々の無償の愛に、心から感謝するのだった。そして、ようやく日本を目前にする日が来るが、祖国は彼らに冷たすぎる仕打ちをした。
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1834年11月 アメリカ フォート・バンクーバー出発
1834年末 サンドイッチ諸島(ハワイ)へ立ち寄り南米周りでロンドンへ
1835年6月 ロンドン着、アフリカ周りでマカオへ
1835年12月 マカオ着。日本行きの船を待つがなかなか機会が訪れず一年以上滞在、途中、九州から漂流した4人と合流
1837年7月 7人揃ってマカオ発。アメリカ商船モリソン号で日本へ。
1837年7月30日 江戸湾着
1837年7月31日 江戸幕府より砲撃される
1837年8月10日 鹿児島湾着、現地役人と話す機会を経て事情を伝えるも、翌日やはり幕府により砲撃される
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力松が吼えるような声で叫んだ。「帰りたか―っ!帰りたか―っ!」その声に、一同が泣いた。が、やがて岩吉は立ち上がり、「わしは…ミスター・キングに、あの陣幕が戦のしるしやと言うてくる」と、泣き声から逃れるように船室を出ていった。(信じられせん、信じられせん)音吉はうつろな目で、児が水の幔幕(まんまく)に目をやった。「音!ほんとやろか。ほんとにお上は、わしら日本人を、撃つんやろか」久吉が音吉の肩を揺さぶった。寿三郎が床を叩いて叫んだ。「わしらが何の悪いことをしたとかぁ―っ!何をしたとかぁ―っ!」「何のために、五年間、今日まで辛抱してきたんや」久吉が打ちなげいた。(信じられせん、何でわしらを撃つんか)音吉はゆらゆらと首を横にふった。大砲が火を噴いたのは、それから間もなくであった。モリソン号は急きょ錨を上げ、帆を張ったが、あいにくと風が落ちた。しかも、潮は満ち潮であった。岩場の多いこの辺りで、満ち潮に遭うことは、砲火にさらされるよりも恐怖であった。船員たちは、激しい怒りに耐えながら、必死に岩場を避けた。無風のために、モリソン号は押し込められるように、数マイルも湾内をさかのぼった。そのモリソン号を薩摩藩の武士たちが岸に群がって高みの見物をしていた。やがてモリソン号は、引き潮に乗りジグザグに湾外に向かって走り始めた。西岸に近づくと西岸から砲弾が飛び、東岸に近寄ると東岸から弾丸がうなった。モリソン号がようやく佐多浦の沖に近づいたのは、午後三時をまわっていた。時々雨が激しく降り、甲板に音をたてて過ぎた。長くつらい一日が暮れた。雨がやみ、暗闇があたりを覆った。庄蔵、 熊太郎、寿三郎は、船室に骸(むくろ)のように横たわっていた。今、甲板には岩吉、久吉、音吉、力松の四人が立ち並んで、黒々と横たわる日本の国土を見つめていた。モリソン号に向けて砲火が遠く闇の中に赤かった。(あれが日本や、あれが日本なんや)音吉の目に又しても涙がこみ上げて来た。「おっかさーん!おとっつぁーん!」年少の力松が、砲火が光る度に狂ったように叫んだ。その声が風にむなしく散る。他の三人は、只黙って力松の声を聞いていた。いや、心の中で、誰もが力松と同じく叫んでいた。もはや二度と会うことのない父に、母に、妻に、わが子に、兄弟に、それぞれが身を引きちぎられる思いで別れを告げていた。(父っさまーっ!大事になーっ!母さま―っ!達者でなーっ!おさとーっ!幸せになーっ!…お琴―っ!さようならーっ!)音吉は顔をくしゃくしゃにして、胸の中で叫んだ。小野浦の白い砂浜が言い様もなく懐かしかった。
力松はまだ、砲火が見える度に泣き叫んでいた。それは誰もとどめようのない悲痛な声だった。その力松の泣き声に、音吉はふっと、(お上って何や?国って何や?)と、呟(つぶや)いた。傍らに声もなく泣いていた久吉が、不意に嗚咽を漏らした。そして叫んだ。「もうやめぇーっ!もう撃つのはやめぇ―っ!」なおも火を吐く砲口に、久吉はたまりかねて叫んだ。その声を聞きながら、岩吉は思った。(…わしは、生みの親にさえ捨てられた。今度は国にさえ捨てられた)
お絹の白い横顔、走りまわる岩太郎の姿が、闇の中に浮かんでは消えた。そして自分を拾って育ててくれた養父母の優しい顔が大きく浮かんだ。やや経ってから、岩吉はぽつりと言った。「…そうか。お上がわしらを捨てても…決して捨てぬ者がいるのや」その言葉に音吉は、はっとした。(ほんとや、ハドソンベイ・カンパニーのドクター・マクラフリンのようにわしらを買い取って、救い出してくれるお方がいるのやな)音吉は、いま岩吉が何を言おうとしているのかわかったような気がした。 砲火を吐きつづける暗闇を見つめながら、
(みんな…みんな…もうわしらのような目には、あわんようになあーっ)と心の中に祈った。
大砲は尚も、遥かに遠ざかったモリソン号を威嚇するように、赤い火を噴き続けていた。
****************(以上本文より抜粋)***************************************
1837年8月13日 日本近海を離れる
1837年8月29日 マカオ着
不安の内にも期待をいだいて、祖国に向かって旅立った音吉達7人の、日本から受けた痛手はいかばかりであったろう。
1837年当時幕府が恐れたのは、外国船の武力もさることながら、それ以上にキリスト教の布教を恐れた。キリスト教は人間平等と人間尊重の思想を育てる。それは必然的に権力批判をもたらす。幕府にとってはそれが何よりもキリスト教を恐れる理由であった。しかも、モリソン号の訪れたこの時代は、天保3年以来至る所に大飢饉が起こり、多数の餓死者が全国的に続出した。飢えた民衆は徒党を組んで豪商を襲い、富農を襲った。(大塩平八郎の乱もこの頃です)この米騒動を鎮圧するために、国民の目を他に外らすことが急務であると幕府は考え始めていた。国民が一致するのは外敵に対する時である。外敵に備えて、各藩の陣地を固めねばならぬと備えていたところにモリソン号が日本に来たのである。文政八年「異国船無ニ念打払の令」が出されて以来、この日に至るまで、この法令が行使されたことは一度もなかった。
作者三浦氏は、この小説を「海嶺(かいれい)」と名付けた理由を以下の通り説明している。
海嶺は、「大洋底に聳える山脈上の高まり」とある地理用語である。私はこの海嶺という言葉を知った時、ほとんど人目に触れない私たち庶民の生きざまに似ていると思ったことである。たとえ人目に触れずとも大海の底には厳然と聳える山が静まりかえっているのである。岩吉も音吉も久吉も、それぞれに海嶺であったと思う。自分の生を見事に生きた人生であったと思う。しかも彼らは、その結果として、自分自身は知らずに、この日本の歴史に大きな関りをもった。即ちモリソン号が日本に与えた影響である。漂流民たちが、モリソン号事件をどうとらえ、岩吉たちが、日本の開港との因果関係をどこまで知ることができたか、それは知りようがない。ただ彼らは祖国を慕いつつ、異国に行き、そして死んだ。
この小説を書きながら、私はいやでも人間のもつ信仰について考えざるを得なかった。板子一枚下は地獄という生活の水主(かこ)たちは、まことに信心深く、船玉を始め、さまざまな神々により頼んで生きてきた。が、それはあくまで国境のある信仰であった。自分たちの国にだけ通用する信仰であった。キリシタン禁令の日本に育った彼らにとって、日本の神々だけが安心して信じることができる対象であった。しかし、国を一歩外に出た時、彼らは今まで知らなかった宇宙の創造主、キリストの神に無縁であることはできなかった。それがどれほど彼らを恐れさせたか、現代の私たちの想像をはるかに超えたものがあったろう。「真実の神には国境はない」にもかかわらず、日本にはキリシタン禁制があった。そのことに彼らが、苦しみ恐れながら生きた姿を私はくどいまでに書いた。
同じ「海嶺」に桝井 寿郎(ますい としろう、1934年- 2011年)氏の解説がある。
岩吉はぽつりと言った。「…そうか。お上がわしらを捨てても…決して捨てぬ者がいるのや」その言葉に音吉は、はっとした。…この捨てぬもの、を見つけることの重要性について、氏は、それが私たちの父、「イエス・キリスト」ではないかと、宣べておられるが、作者(三浦氏)は、」ほんとや、ハドソンベイ・カンパニーのドクター・マクラフリンのようにわしらを買い取って、救い出してくれるお方がいるのやな、と音吉の理解を記しているにすぎない。しかし、神は、これら7名の漂流者たちを救うために、異邦人を、遣わしたのだと、読み取ることができる。神の見えざる手が、彼らに働き、彼らをマカオに向かわせるのである。神は、日本に帰すことよりも、漂流民を生かして、実践者として、さらに飛躍するように、導かれたのではあるまいか。
桝井氏は、海嶺の解説文の中で、「心の鎖国」について記されている。現代の私たちの心の奥底に、まだ「心の鎖国」が放置されていて、世界の国々との経済上、外交上の様々なトラブルを引き起こす遠因にもなっている。外見はいかに日本人が欧米風の生活様式を身に着けているにしても、欧米人の精神風土に溶け込めないものがある。海外で生活する日本人たちが、自分たちだけの群れをつくり、日本人社会から外へ出たがらないことが多い。これが「こころの鎖国」というものであろう。音吉ら三人も、やはりこの「こころの鎖国」の中に閉じこもっていて、外界を恐れおののいて眺めていた。外国の風俗習慣がなじめない、ということよりも、一層奥深い所で、拒絶反応を示さざるを得ない。そんな三人が、日本を離れることによってはじめて、日本とは何かを問い、自我に目覚めてゆくことになる。「こころの鎖国」は150年前のこととして、すまされない。今日の日本人社会においても、その中にいる限りは、身内意識によって守られる。しかし一歩そこから離れると、非情なまでに仲間外れにされてしまう。真の信頼によって成り立つとはいえず、鎖国時代の名残が今だに潜在意識として残っている。音吉らも「こころの鎖国」という厚い壁にいくども、挑戦をくりかえしては、失敗している。多神教しか知らない日本人の視点から、キリスト教の本質をさぐってみても、いよいよわからなくなってしまうのが常であろう。そのような迷える三匹の小羊に救いの手を差しのべたのが、マクラフリン博士であり、キングであり、パーカーやウィリアムズであり、ギュツラフであった。神はこれらの人々を通して、音吉らの「こころの鎖国」を解き放って、神の光を注ぎ入れようとなさったのである。
三浦氏の文学を一枚の絵にたとえるならば、そのカンバスに描かれた人物像のバックには、いつも神の光が美しく映えていると言ってもいいだろう。そしてその光に人物像の一人ひとりが照り映えている。それゆえに、登場人物たちはいつも希望を失わないのかもしれない。
「艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出す。」(ローマ人の手紙5・3‐4)のである。この与えられた艱難が、決して悲劇だけに終わらぬのだという信念に支えられて書き進められたと思う。三浦氏も「美しい魂に触れて感動し、生きる道を求める、そのような文学を創造していきたい」と願い、常に、神に祈りながら原稿の口述筆記をしているという。このキリスト者の伝道実践としての文学精神は、現代の文壇が陥っている不毛の状態に、大きな光と世界文学への道をひらく明日への示唆を与えているのではないか、と思うのである。
(了)