天安門事件

今日は、悪名高い」「天安門事件について記したいと思います。

1989年というのは不思議な年です。
冷戦の終わりを象徴するベルリンの壁崩壊は1989年でした。翌1990年には東ドイツが西ドイツに吸収され、統一ドイツが成立しました。ポーランドでは、1989年に政府が「連帯」の合法化に踏み切ると、「連帯」は総選挙で圧勝して政権につきました。ハンガリーでは複数政党制が導入され、ブルガリアやチェコスロバキアでも指導部が交代し自由化がすすめられ、ソ連離れが明確になりました。ルーマニアでは、1989年にチャウシェスク大統領が反政府運動の高揚の中で処刑され、新政府が生まれました。日本では、1989年7月の参院選で社会党候補が続々と当選を決めました。

世界中に民主主義の動きが起こり、民主化が進み始めます。例外が中国やアラブ諸国です。
1989年に東欧で起こった民主化の波は、ほとんどの諸国を平和裏に自由民主主義国へと導きましたが、2011年に一部のアラブ諸国で起き始めた民主化の波は、四国で独裁政権の崩壊をもたらしたものの、多くのアラブ諸国においては政権の若干の譲歩か弾圧によって抑え込まれるか、内戦をもたらしてしまいました。民主化し始めた4国でも、チュニジア以外では権威主義政権の復活や内戦に至り、今のところ失敗に終わっています。

現代では、「民主主義を知ること」は人生をよく生きるうえで必要不可欠です。今の日本人は民主主義を「甘え」に使ってしまっていますが、本来は「自分たちが主体的に生きるため」に使うべきものなのです。それはなぜかといえば、民主主義はもともと宗教から出てきたものだからです。

今私たちが民主主義と呼んでいる人権や平等などといった考えは、3大宗教と呼ばれる仏教、キリスト教、イスラム教といった大きな宗教の根源的な考え方なのです。その中から、「赦し」の部分のいいところだけを取ったのです。たとえば、優しさや平等、人権といったものはそうです。もともと宗教では、神と人間との関係に何度も盛衰がありました。神の掟とは、イコール宇宙や自然の掟です。宇宙や自然の掟の中で、人間がどう文明を築き、よくなるかというのが、もともとの宗教の歴史です。その中で神の掟が強くなり過ぎてしまった時代というものが、何度もあるわけです。人間を神が圧迫するような時代です。それから、今でも3大宗教と呼ばれて残っている宗教は、圧迫だけでなく、神の中には許しもあると説いたのです。それが釈迦であり、キリストであり、ちょっと遅れてマホメットです(ヒンズーなどもありますが)。これらだけが世界の3大宗教として今に残っています。この世界の3大宗教の思想を研究していくと、全部、「今の民主主義」であることがわかります。例えばキリスト教が世界を覆って「本当のキリスト教の社会」ができたら、理想的な民主主義だったのです。これは仏教ももちろん同じです。ところが、歴史的にはそうならなかった。人間の欲望のほうが勝ったからです。

 一番、今、忘れてはいけないのは、宗教から出てきた「昔の民主主義」は、全部、神を持っていたということです。ここが重要です。神を認めつつ、「少し」は神から自由になってもいいという考えから生まれたものが民主主義なのだと理解することが、まず大切なのです。

だが、あの年1989年には、中国の民主化運動を弾圧した天安門事件も起こっていました。ふたつの出来事のうち、どちらが歴史の流れを決定づけたのでしょうか。社会主義体制に勝利したと信じられた西側の自由民主主義は、その後大きくつまずきました。いっぽう、戦車と銃口でデモを粉砕した中国共産党の専制は、ゆるぎなく強化されているように見えます。89年に勝利したのは、どちらの勢力なのでしょう。

六四天安門事件(ろくしてんあんもんじけん)は、1989年6月4日(日曜日)に中華人民共和国・北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していたデモ隊に対し、軍隊が武力行使し、多数の死傷者を出した事件です。中国の周辺国では、2年前の同時期に台湾の中華民国ではのち民主化前の一歩前進の戒厳令解除や、韓国の光州事件から始まった民主化闘争の末の民主化宣言が立て続けに起こり、東アジアの広範囲で民主化の波が押し寄せていました。

民主化とその成功が勢いづいた波が遅れて到達した中国国内でも若者の民主化運動の高まりが広がり、民主化を求めるデモは、改革派だった胡耀邦(フー・ヤオパン)元総書記の死がきっかけとなりました。胡耀邦の葬儀までに、政治改革を求める学生を中心に約10万人の人々が天安門広場に集まりました。抗議運動自体は、胡耀邦が死去した1989年4月15日から自然発生的に始まりました。抗議の参加者たちは統制がなされておらず、指導者もいなかったのですが、中には中国共産党の党員、通常は政府の構造内部の権威主義と経済の変革を要求する声に反対していた改革派の自由主義者も含まれていました。

デモは最初は天安門広場で、そして広場周辺に集中していましたが、のちに上海市を含めた国中の都市に波及していきました。鄧小平中軍委主席の決定により5月19日に北京市に戒厳令が布告され、武力介入の可能性が高まったため、趙紫陽総書記や知識人たちは学生たちに対し、デモの平和的解散を促したが、学生たちの投票では強硬派が多数を占め、デモ継続を強行したため首都機能は麻痺に陥りました。1989年6月4日未明、中国人民解放軍は兵士と戦車で北京の通りに移動して、デモ隊の鎮圧を開始した。これが天安門事件の概要です。

つぎに「ヒマワリ学運」について記します。
2014年三月に台北で発生した学生運動です。当時、総統の馬英九が中国と結ぼうとしていた中台サービス貿易協定に反対する学生運動グループが立法院(台湾の国会に相当)の建物を占拠し、やがて50万人規模のデモを組織して政府当局と交渉。ついには世論の後押しも受けてサービス貿易協定を実質的陳に棚上げさせ、奇跡的な無血勝利を挙げた事件です。
ヒマワリ学運の二人の学生リーダーは、林飛帆(リンフエイファン)と陳為廷(チェンウエイテイン)でした。
林飛帆は沈毅な理論家タイプで、陳為廷はよく口が回るヤンチャな革命家タイプです。それぞれキャラクターの類型としては、1989年の天安門事件当時の王丹とウアルカイシに何となく似ており、台湾メディアにもそれを指摘する声がありました。
この林飛帆と陳為廷は、いずれもヒマワリ学運の発生以前から王丹と面識があった。特に陳打つか後の為廷は当時の王丹の勤務先である国立清華大学大学の大学院生で、「民主サロン」にも出入りしており、王丹とは浅からぬ師弟関係があった。
いっぽう、ヒマワリの学生たちが立法院を占拠してからわずか二日後の2014年3月20日早朝、王丹はウアルカイシとともに立法院内に入って陣中見舞いをおこなっている。当時、王丹のフェイスブックページは運動に参加する若者たちの情報交換の場の一つにもなった。

「いったい、王丹先生はあなたに何を教えたんです?」
「そうだなあ。ううん…、別に大したことはないよ。いや…、いっぱいかなあ」
 それからしばらく後の4月1日。私(安田)がある週刊誌の取材で、デモ隊が占拠中の立法院内に立ち入って陳為廷に30分間のインタビューをおこなった際、陳との間でこんなやり取りをしたことがある。一音一音を伸ばして「いっぱいかなあ」と発した声には、やや冗談めかした響きがあった。私の質問を上手くはぐらかしたのか、本当に大したことは何もないのか、どちらとも取れる返事だった。
ただ、彼らは過去の東アジアの学生運動をずいぶん研究しており、普段から台湾と交流が深い香港のみならず、中国大陸の学生運動家とすら個人レベルではコネクションを持っていた。当時の陳為廷は日本メディアの記者の取材を受けるときは「全共闘運動を参考にした」としばしばリップサービスをおこなっていたが、彼の人脈は日本人の全共闘のOBたちよりも王丹との関係のほうが明らかに深い。

 台湾と言語を同じくする中国大陸の天安門事件について、林飛帆と陳為廷には一定以上の知識があったと考えるのが自然だ。学生が国家の中枢部(天安門広場や立法院)を占拠して、その撤退を交渉材料として当局に対話を要求する手法も、天安門事件とヒマワリ学運は共通している。

 いっぽう、学生運動としての天安門事件の総括は、過去に王丹がおこなっている。例えば日本の月刊誌 「現代」に寄稿した手記( 1994年7月号 伊藤正訳 )
【1:思想的基礎の欠如】 一人一人の参加者が「民主や民主運動についての明確な概念」を欠いていた。結果、明確なイシューを打ち出せないまま広場の占拠が長期化し、運動方針の混乱を招いた。

【2:組織的基礎の欠如】 参加者に対するしっかりした指導の中心や指揮系統が存在せず、途中から運動が四分五裂に陥った。

【3:大衆的基礎の欠如】 学生と知識人だけが盛り上がり、一般国民(労働者や農民)への参加の呼びかけを怠った。また、政府内に存在するはずの改革派と「暗黙の連合」を組む姿勢をとることもできなかった。

【4:運動の戦略・戦術の失敗】 運動を政治目的を達成するための手段として使うという意識が薄かった。デモ参加者たちは学生運動の「純粋性」をひたすら強調し、当局への譲歩や一時後退といった柔軟な戦術を一貫して否定し、弾圧を招くことになった。
わかりやすくまとめれば、天安門の学生デモは指揮系統や要求内容を絞りきれず、具体的になにを目指すかの共通認識も欠けていた。また、国民全体から見ればごく狭い範囲のエリート(と言っても全国で何百万人もいたのだが)たちの内輪の盛り上がりにとどまり、ノンポリの一般庶民に理解を求めることを想定していなかった。さらに「ピュアな若者」というイメージで自分たちを縛り、当局という「汚い大人」を相手取るしたたかな交渉戦略を否定して、ろくな落し所を準備できないまま国家中枢の占拠を続けてしまった—―。
だから負けたというわけである。的確な分析だろう。

 たとえば、2014年秋に香港で起きた雨傘革命は、完全にこのパターンで失敗している。敷き系統や闘争方針が一本化されず、ダラダラと市街地の占拠を何か月も引き延ばしたことで経済的影響を被った一般市民の反発を招き、空中分解したからだ。


いっぽうでヒマワリ運動は、王丹さんが指摘した四つの注意点をすべて克服していてだからこそ勝てたように思うのですが、いかがでしょうか?
たしかにその通りです。ヒマワリ学連の人たちは本当に見事だったと思いますよ。


では、あなたはこの四点の指摘を、陳為廷他台湾の学生に教えたことがありますか?
当事者として、1989年の学生デモの経験や反省については言及したことがあります。しかし、この四点について述べたことは特にありませんね。むしろ、『理想を持ち続けることは重要だ』といった点の方を強調して喋ってきました。 だが、ヒマワリ学連が成功した要因が、王丹が過去に行った天安門の総括と奇妙なほど符合しているのは間違いない。

運動の指揮系統は林飛帆と陳為廷に集約され、デモ隊の主張を協定撤回のワンイシューに絞ったことで与党・国民党の支持層にすらも同調者を広げた。彼らは政府当局や与党との交渉を積極的に行って政治的な妥協を引き出し、わずか数週間で結果を出してサッと撤退している。鮮やかすぎる手際だった。
「ヒマワリ学運をおこなった学生たちは、天安門事件の経験に学んだと思いますか」
「思いませんね。私たちが1989年におこなった学生運動は、五四運動以来の中国の伝統的な知識人の価値観に基づいて、国家を救おうとしたものです。しばしば指摘される『西側の影響を受けたもの』ではなかったのではないかと思っています。」
「ヒマワリ学運は、中国的な知識人の伝統は継承していないのですか」
「ええ。台湾や香港はもともと西側の影響が強い地域です。ヒマワリ学運も雨傘革命も、グローバル化の中で起きたもので、中国の伝統とは無縁です。特に台湾の場合、市民自身の間に民主化を勝ち取った社会運動の歴史があります。陳為廷たちの成功は、これらを体験的に知っていたためではないでしょうか」
王丹はどこまでも慎重である。
「もっとも、天安門事件は結果的に、当事者ですら意図しない形でヒマワリ学運に影響を与えていたかもしれません。お話を聞いているうちに、だんだんそう思えてきました」インタビューが終わりに差し掛かった頃、私(安田)はそんな感想を言った。王丹が「どういうことです?」と逆に尋ねた。
「つまり、後世の歴史に与えた影響ということです。八九六四の武力鎮圧が大きな国際非難を招いたことで、その後の各国の独裁政権は、大衆運動を銃で解決する選択肢を非常に取りづらくなったのではないかと思うのです。」
「確かにその通りでしょうね。しばしば『天安門事件は中国を変えなかった』という
批判がなされますが、しかし『たとえ中国を変えなくても世界を変えた』とは言えるはずですよ」
天安門のデモ発生から一年後、その事例の一つが中華圏の別の国家で見られた。
1990年3月、台湾(中華民国)で野ユリ学運という大規模な学生運動が起きたのだ。当時、台湾全土の学生たちは中華民国版の「天安門広場」である台北の中正紀念堂広場を占拠し、政治の民主化を要求した。彼らは広場内でハンガーストライキをおこない、マイクを握って長広舌を振るった女子学生の一人には「台湾の柴玲」というあだ名がついた。中正紀念堂広場の占拠地域には「民主の壁」が作られ、「民主の野ユリ像」が建ったというから、当事者たちは前年の北京の学生運動をかなり意識していたようだ。
  いっぽう、当時の台湾は動員戡乱時期臨時条款という準戦時体制が四十年以上も敷かれ、中国国民党の一党独裁体制を支えていた。1988年に没した蒋経国のあと、開明的な李登輝が総統代行の地位にあったとはいえ、保守派との競争が激しく権力基盤は不安定だった。国民党による長年の恐怖政治を知る海外のメディアは、台北の学生運動が結果的に前年の北京と同様の幕切れを迎える可能性を書き立てた。
………だが、結果的に台北は北京にならなかった。李登輝が学生の代表者たちとの対話を承諾し、政治改革の実行を約束したためだ。結果、学生たちはデモ発生の六日後に中正紀念堂広場から退場。この出来事を境に、現在まで続く台湾の民主化の歴史が本格的に幕を開けることになった。風が吹けば桶屋が儲かるような話だが、前年の北京で起きた八九六四の惨劇が、台北でデモに直面した国民党や中華民国軍の指導者たちの判断になんらかの影響を及ぼしたことは間違いない。そして、台湾の社会運動史はこの野ユリ学運の成功体験と直接的につながる時間軸の先に、2014年のヒマワリ学運を迎えている。
「……もしかして天安門事件は、中華人民共和国ではなく中華民国を民主化させた事件として歴史的な意義を持っているのではないでしょうか」
「きっと関係があるのでしょうね。それ以外の国の民主化運動に対して与えた影響も大きいはずです」
王丹はそういってから、少し考えて言葉を継いだ。
「私たちは自分の家の問題は解決できなかったが、よその家の問題を解決していた・・・・」
(了)
[八九六四] 天安門事件は再び起こるか 安田峰敏(やすだみねとし) KADOKAWA