ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟(大審問官)

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』
第五篇第五章『大審問官』より

語り手である、イワン・カラマーゾフと、その聞き手である弟のアリョーシャ・カラマーゾフの二人の対話形式で話は進行する。

聞き手のアリョーシャは、修道院入りを志願している非常に愛すべき熱心なキリスト者です。語り手のイワンは頭脳明晰な無神論者です。イワンは、真摯なキリスト者である弟のアリョーシャの信仰を普段はからかっているのですが、その率直な信仰にとても引っかかっているのです。彼の無神論は単なる無神論ではありません。彼の心の底には実は正義を愛する愛が横たわっていて、それゆえにかえって、神さまを信じられないで苦しんでいる、というような人物です。

そのイワンがあるとき長い叙事詩を作りました。そして、弟のアリョーシャにそれを聞いてくれないか、といって彼に解説付きで聞かせる物語がこの『大審問官』なのです。

 

さて、この物語の舞台はイスパニヤのセヴィリヤの町、時は十六世紀、神さまの栄光のため毎日毎日、異教徒の群れが火あぶりの刑に処せられて、国内のいたるところにその薪の火が燃えさかっていた恐ろしい宗教裁判の時代です。

大審問官というのはその宗教裁判の一番偉い裁判官です。そこへ人々の切なる祈りと願いに応えて、限りない慈愛の心に満ちたキリストがやって来ます。苦しみ、悩み、暗い罪の淵に沈みながらも、幼児のように自分を慕っている民衆のところへ天から降りてきます。それは、キリストがかつて約束された世の終わりに出現する天国の栄光に包まれた輝かしい姿ではなく、十五世紀前に三年間、人びとの間をへめぐったときと同じ人間の姿を借りて、いま一度、民衆の間へ現れたのです。

人々はみな、不思議なことに、すぐにそれがキリストだと分かります。彼の周りに集まり、人垣を作りながらそのあとについてゆきます。そして、セヴィリア大聖堂の前で、運びこまれた七つになる女の子の死体に向かって、「タリタ、クミ」(少女よ、起きよ)とキリストが言われると、その少女は棺の中に起き上がり、ニコニコ笑いながらあたりを見まわします。群衆の間に、動揺と叫びと驚きの声が起こります。すると、ちょうどその時、大聖堂の横の広場を九十歳になんなんとしている大審問官が通りかかるのです。


彼は、背も高く腰もしゃんとし、顔はやせこけ、目は落ちくぼんではいるが、その眼にはまだ火花のような光が宿っている、そして粗末な修道服を身にまとった大審問官です。少女が生き返ったのを見た彼は、護衛の者に命じてキリストを召し捕らせ、神聖裁判所付きの、狭い陰気な円天井の牢屋へ入れてしまいます。そしてその夜、深い闇の中に突然その牢屋の鉄の扉が開いて、老大審問官が入ってきます。ぴたりと扉を閉めた彼は、戸口に立ち止まって、長いこと、一分か二分、じっとキリストの顔を見つめます。

それから、長い長い大審問官の会話――いや、その間、キリストは終始沈黙を守っていますので、それは独り言ともいえますが―――その話が続きます。さて、その老大審問官の話なのですが・・・・。
イワンによれば、この老大審問官はかつて熱烈にキリストの理想を信じていたばかりでなく、イエス様と同様に、荒れ野に行っていなごと草の根で命をつないだこともあり、自由を祝福し、イエス様の信徒の仲間に加わろうと思ったこともあったのです。しかし彼は、老年になって目が覚め、イエス様を去って、イエス様の仕事を訂正した人々の群れに身を投じたのです。

「つまりわしは傲慢な人々のそばを離れて、これらのつつましき人々の幸福のために、つつましき人たちのところへ戻ったのだ」と言います。老大審問官が、イエス様の理想を信じながらも、イエス様のもとを去ったのは、救いを与えようとする当の対象である人間の理解において、そしてまた、その救いの方法において、イエス様と根本的に見解を異にしていたからだ、と言えます。

老大審問官は、イエス様と自分とのその見解の相違の決定的な現れを、あの「荒れ野の誘惑」におけるイエス様の態度の中に見たのでした。あの荒れ野で、悪魔はイエス様に、パンと奇跡と権力でもって人間を救い、自由にすることを勧めた。ところが、イエス様はそれを断固として拒否なされた。つまり、イエス様は、人間をパンや奇跡や権力の奴隷にすることを欲したまわず、もっぱら人間が自由であることを、自由の子であることを求められたからです。だが、大審問官の考えによると、そのイエス様の考えは、人間をあまりに買いかぶりすぎた誤算であった、と言うのです。

人間は、イエス様が考えているよりもはるかに弱く、卑劣に造られているのだ。彼らは不逞な謀判人ではあるけれど、その本性は意気地のない奴隷なんだ。ぎりぎりの所に追いつめられて、パンをとるか自由をとるかと迫られれば、「私どもを奴隷になすってもかまいませんから、パンだけはお恵みください」というにちがいないのだ。また、お前は「見ずして信ぜよ」と言うが、見ずして神様を信じるなんてだれができるのか。何かしるしがなければ、神さまがいらっしゃるというしるしがなければ信じられない。人間は自由な信仰よりも奇跡を求めているのだ。更に、お前は、あらゆる権力から解放されて主体的に生きよ、などと言うが、人間は自分を本当に支配してくれるものを探しているのだ。もちろん、良心の自由というのは大変格好がよいけれど、これほど厄介なものはない。ごく少数の選ばれた人々は良心の自由を享受することができるかもしれないが、一般大衆は自由などという恐ろしいものに耐えられない。むしろ、彼らはこの賜物を一刻も早くだれかに譲り渡して、その人に責任を負ってもらいたいと願っている。そういう権力者を懸命に求めているのが、奴隷根性を身につけた人間のほんとうの姿なのだ。

ところが、イエス様は、人間のこうした本性を察知しないで、あの悪魔の誘惑を退け、人間の良心を支配してやる代わりに、かえってその良心を大きくして、その苦しみによって永久に人間の心の国に重荷を課してしまわれた。だから、イエス様が命をかけてなされたその愛の行為は、少しも人間を愛したことにはならないで、かえって人間を一層苦しめる結果になってしまった。
そこで、大審問官は、イエス様と決別し、悪魔の勧誘を受け入れたのです。教会は、神さまのみ言葉よりも人々にパンを与えて、彼らを喜ばせてやっているのだ。いろんな奇跡とか神秘を用意して、無知な彼らの信仰を満足させてやっているのだ。また、強力な権威機構を作って、信徒に号令し、それに服従すれば救われると彼らを安心させてやっているのだ。このように大審問官は言うのです。言いかえると、彼は、人間を愛し、その本性をよく知っているがゆえに、人間を幸福にしてやる道は、パンと奇跡と権力によって彼らを支配してやる以外にないと考えるわけです。

老大審問官が、この長い話を語り終え、黙ってじっと聞いていたキリストから、たとえ恐ろしいことでもよい、何か一言でもしゃべってもらいたいとたまらない気持ちになったとき、突然、キリストは、無言のまま老人のそばへ歩みよると、九十年の年月を経て血の気も無くなった老人の唇にそっと接吻します。それがキリストの答えの全部だったのです。老人は思わずぎくりとなり、戸を開け放し「さあ出て行くがよい、そして二度と来るでないぞ・・・・・。絶対に来るでないぞ・・・・。どんなことがあっても、絶対にな!」と言って、暗い町の広場へと彼を放してやります。キリストは音もなく立ち去ります。

  これがイワンの作った『大審問官』という叙事詩なのです。この物語を静かに聞いていたアリョーシャは叫びます、「しかし…それは馬鹿げた話です!兄さんの叙事詩はイエスに対する賛美であって、非難ではありません、…兄さんの見込み違いですよ。それに、兄さんの自由説なんて誰が信じるものですか!いったい自由はそんなふうに、そんなふうに解釈すべきものでしょうか?」と。

  皆さんは、イエス様の荒れ野での誘惑にイワンが、いや、ドストエフスキーが読み取った「人間の自由」の問題をどのようにお考えでしょうか。人間は本当に何によって自由になるのでしょうか。パンや奇跡や権力によってではなく、神さまによってのみ人間は自由になるのだということをお示しになったイエス様の言われる「人間の自由」とは、一体どんなものなのでしょうか。新約聖書を通して私たちがこれから学んでゆかなければならない一つの大きな問題であると思います。

私(著者)の場合:
イエス様はヨルダン川で「あなたは私の愛する子、わたしの心にかなう者である」(マルコ1.11)という神からのメシア保証を受けられ、ご自分が神の子であることを確信しながら、なぜすぐに世の中に出て行かれなかったのでしょうか。それはイエス様が公生涯に入られる前に、どうしてもはっきりさせておかねばならなかった二つの問題が、すなわち神様と人間についての根源的な問いがイエス様の心の中にあったからだと思います。

その一つは、「お前が<神の子>なら」という問いかけ、すなわち、「もしも神様が本当に神さまであり、そして、お前が本当にその神さまの子であるのなら」という前提から出される神さまについての根源的な問いです。「もし神様が本当にいらっしゃるのなら、そして、もしその神さまが本当に神さまであるのなら」という前提に立った問いから導き出される神様についての人間の答えは、私たちの世界の現実、私たち人間の生活を見た時、どうしても神様はいないと、最後には神様を否定せざるを得なくなると思うのです。もし神様が本当にいらっしゃるのなら、悪人どもが栄えてわがもの顔に世界に君臨するはずがないではないか。地道にこつこつ働いている者が損をし、不正を行う者が富んでゆくことなんて許されるはずがない。戦争で善男善女が苦しみ、飢えで子供たちが次々と死んで行ったり、難民たちが悲惨な目にあったり、そしてまた、開発途上国の民衆が大国の犠牲になったまま放っておかれるなんてことがあるはずはない。

「お前が<神の子>なら」という言葉で始まる悪魔の問いかけには、神様についてのそういう人間の論理と人間の現実の矛盾が含まれているのです。そして、これこそまさに悪魔の誘惑というべきでありましょう。人間は、「もしも神様が本当に神さまであり、そして、お前が本当にその神さまの子であるのなら」という前提に立って神さまのことを問題とするとき、必ず背教者とならざるを得ないのです。背教者とは、彼が神様を裏切る前に、自分の願望が神様によって裏切られていることを経験している人たちなのです。

これは、これから私たちが学ぶイエス様のご生涯の基本的な問題ですが、ここで一つだけ申し上げておきたいことがあります。それは、信仰ということ、信じるということについてです。私が「もし神様が本当にいらっしゃるのなら、そして、もしその神さまが本当に神さまであるのなら」という前提に立って問いを発するということは、そこにすでに、神さまはこういうお方である、こういうお方でなければならない、という答えを私なりに用意しているのです。そして、その答えと矛盾しない現実においては、私は信じるということができ、矛盾する現実とぶつかった時には、私は信じない、あるいは裏切られた、というのです。

しかし、こういう私たちの態度は、随分極端な言い方かもしれませんが、「信仰」とか「信じる」という言葉に値しないと思うのです。むしろ「信じる」というのは、神さまの存在なんてとても考えられないような現実において、そういう現実にもかかわらず神様が生きて働いておられることを承認することではないでしょうか。私たちが神様によって裏切られているというような状況に立たされて、はじめて、私たちは背教者になるかそれとも信じる者になるかどうかということが起こるのではないでしょうか。

それは、つまずくか信じるかという、あれかこれかの瀬戸際に立たされた時の私たちの決断です。ですから「信じる」というのは大変なことだと思います。「信仰」とは非常に重い言葉だと思います。だが一方、見方を変えれば、それはまったく単純なことです。それは論理を超えた明快さです。

さて、もう一つのことは、人間についての根源的な問いです。人間の解放の問題といいますか、人間が本当に人間らしくなるのは何によってか、という人間理解をめぐっての問題です。先ほど見ましたように、イワン・カラマーゾフの描く大審問官はこういいました、人間なんて、日ごろは愛だ、正義だ、自由だ、などとお体裁の良いことを言ったりしていても、本当のところ、天上のパンなんていうものは、彼らにとって、地上のパンとは比較にならないほど軽いのだ。人間は、ほんとうは神様なんて求めていない、欲しがっているのは奇跡だ。彼らは、奇跡を否定するや否や、すぐに神さまをも否定する勝手な奴だ。人間の本性は奴隷根性で、自分の良心を売り渡す権力者をキョトキョトと求めている卑怯者だ。人間というものは、パンと奇跡と権力で救われることを願う惨めな存在で、人間の本心は脆弱と卑怯以外の何者でもない、と。

たしかに、大審問官が言うように、人間はそういう弱い存在です。だからといって、人間の解放、自由、救いというものは、そのような人間侮蔑の直接的な原理に立って与えられるべきものなのでしょうか。人間とはくだらない存在だ、ということを大前提として、人間の幸せというものを考えてゆくべきなのでしょうか。
イエス様は、大審問官が指摘したように、荒れ野の誘惑でそれを拒否なさいました。イエス様がそれを拒否なされたということは、イエス様は別の視点から人間を見ておられたということを意味します。それはこういう視点です。人間というものは、一人一人、どんなにみじめで、どんなにくだらなくても、神さまの愛されている、かけがいのない、尊い存在だ、ということです。

大審問官がいうような人間の醜悪な現実の中においてさえ、神さまのお恵みによって、なおもそこに現れ出ようとする尊厳と信頼こそ、人間の本来の姿なのだ、ということです。一人一人の弱い人間存在の中に、実は、神さまによって愛されているものということのゆえに、神の子としての絶対的な価値があるということ、そこにこそ人間をして本当に人間たらしめる根源的な力がある、ということです。

荒れ野でイエス様を誘った悪魔や大審問官のように、人間の醜悪さを原点にして人間の解放を考えるのか、それとも、人間の醜悪さにもかかわらずその人間を愛してやまない神さまの愛、その神さまの愛のゆえにどんな人間も神の子供として無限の価値を持つのだ、という人間の尊さを原点として人間の解放を考えるのか、これは非常に大きな問題です。これは、単なる人間観だけにとどまる問題ではなくて、政治や経済や社会のすべてに影響を及ぼす重大な問題です。

(了)