隣人愛とは?
藤田 朋恵
12月に入ると、毎年あちこちで歳末助け合い運動が始まります。
街では、「ご協力をおねがいいたします!」と募金箱を抱えた人が行き交う人たちに呼びかけています。さて、読者の皆さんはこの呼びかけにどのような態度を取られますか?
お答えいただく前に、新約聖書のルカの福音書10章に書かれたお話を一つ紹介させてください。
「先生。 何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」 これは、今から約2千年前に律法学者がイエス・キリストに対し救いの方法を尋ねたものです。 律法学者とは旧約聖書に書かれた律法の専門家でユダヤ教の権威ある指導者でした。 イエス様は彼がイエス様を試そうとしているのを見抜いておられ、このように聞き返します。 「律法には何と書いてありますか。
あなたはどう読んでいますか。」
律法学者はこう答えます。 「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」
イエス様はこう言われました。 「そのとおりです。 それを実行しなさい。 そうすれば、いのちを得ます。」
しかし、律法学者はさらに「では、私の隣人とは、だれのことですか。」と問いかけました。この問いに対してイエス様は、追いはぎに合い道端で死にかけていたケガ人を介抱したサマリヤ人のたとえ話をもって説明されました。神に仕える祭司やレビ人は、この同国のケガ人を遠巻きにして通り過ぎていきました。 一方、来合わせた外国人のサマリヤ人はその人の傷口を介抱し、宿屋に連れていき、そして、十分なお金を宿屋に支払って行きました。もうおわかりのように、このケガ人にとっての隣人とは哀れみ深いサマリヤ人のことです。聖書で言う隣人とは隣近所の知り合いという意味ではないのです。 このたとえ話は、我々にも当てはまるお話です。見て見ぬ振りは無関心、冷淡さの表れではないでしょうか。マザーテレサは『愛の反対語は無関心』と言われたそうです。我々も当時の頭でっかちの律法学者のようにならないように心がけたいものです。
助け合うこと(もちろん歳末だけでなく!)が隣人愛につながることなのですね。