ユダヤ教を学ぼう
聖書を学ぼうとする方は、新約聖書から読み始め、イエスの降誕と幼少時代、バプテスマのヨハネの活動、イエスのバプテスマ、荒野でイエスになされた様々な誘惑、カナで行われた最初の奇跡、初期ユダヤ人伝道、ガリラヤ伝道、エルサレム訪問、ペレヤ伝道、後期ユダヤ伝道、最後の1週間、復活と宣教を、読み、主の十字架の場面では涙することでしょう。イエスは伝道をされましたが、伝道活動は弟子たちに託されていました。ご自分の働きの収穫を選ばれた12使徒に任されました。ご自分の働きの収穫を12使徒たちに託されたのです。イエスが神によって託された使命は十字架上で死なれることでした。イエスは十字架上で死なれた後、ご自分の霊によって弟子たちを導きました。2年間の弟子に対する訓練の後、イエスは弟子たちを地の果てまでの証人として遣わされました。新約聖書には弟子たちの働きの一部分、パレスチナ、小アジア、ギリシャ、ローマと、ペテロ、ヨハネ、パウロの働きだけが記されています。おそらく、十二使徒たちは、異なった方向に向かうように協定したと思われます。または各自が最善と思う地に導かれたのかもしれません。彼らは期間を定めて、2人ずつ出かけました。そして他の人々の働きの場を訪れ、教会確立に尽力されました。紀元後62年ごろ、パウロは「この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられている」と言いました。(コロ1:23)キリストの物語は30年たたないうちに当時の全世界に伝えられたのです。伝承によれば、12使徒はほとんどキリストに対する証言を殉教によって証印しました。
イエスの教えの中心は、山上の説教に書かれています。マタイには、説教は山上で、ルカには山を下り平らなところでなされた、とあります。イエスの教えのなかでも、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」、「敵を愛しなさい」、「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい」などは、われわれには自分自身には実現不可能のように思えるかもしれません。しかし、イエスご自身はそのように生活されて、われわれがどのように誤った取り扱いを受けた場合でも、憤りの心を起こさないで、さらに加害者の幸福を実際に求め、われわれを憎む人々にも愛の心をむけるように明白に教えられました。
教会加入を許された最初の異邦人はローマ兵でした。(使10:1)兵役の放棄は要求されませんでした。裁判官、警察官、軍人などは、法律の維持に責任ある官吏として、正義の原則には厳格に従わなければならないが、個人としては極力、心においても生活においても、黄金律を実行することになるでしょう。
イエスは「枕するところもない」ほど、貧しかった。約3年間を旅行で過ごし、その間相当多くの者がイエスに従った。また少なくても2回、大きな伝道隊を組織されました。彼らは人々から、歓迎されることもありました(マタ10:11)。イエスは富裕な人々その他から献金を受けました。(ルカ8:3)イエスがそう思えば、多くの弟子や病人から一財産をこしらえ、王者のような生活ができました。しかし彼は貧しさのうちに生き、そして死んだ。
新約聖書の中心は、霊的な問題です。「コリント人への手紙」の解説書(G.C.モルガン博士著)の序言には次の言葉があります。「新約聖書の中で、『コリント人への手紙』ほど、現今の教会への適切なメッセージで満ちている手紙は、他にはほとんどないと言っても過言ではあるまい。『十字架の言』と『人の知恵』との争い、神の教会に起こる分裂、教役者への援助、復ア活の証拠、結婚、偶像礼拝、献物等の問題は、パウロがこの手紙を書いた初代教会時代と同様に、今日でも真面目に取り上げなければならない問題である。」とある。モルガン博士の、『コリント人への第一の手紙』冒頭でパウロがこの手紙の中で提出されている諸々の問題の答えにはすぐに取り掛からなかった。彼はまず、彼ら(コリント人)の状況の中で、気づいたいくつかの事実を扱った。次のとおりである。「さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。皆語ることを一つにし、お互いの間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結びあっていてほしい。私の兄弟たちよ。」かれ(パウロ)は手紙の第一部で、何を扱っていたか。彼は肉的なこと、この世の事柄、血肉の事柄、コリントの人々の中に入り込んできて彼らに対する証言と召命とをだめにしたような事柄を扱っていた。しかし、今度は(まるで「こうした事柄はもう御免こうむりたい、そして、もっと高い、もっと善い、建設的な事柄を扱いたい」と言うかのように)「霊的な事柄については…」と言う。これがこの手紙をはっきり区切る線である。手紙全体をこのように扱うことができる。第一は肉的な事柄を扱っていて是正的であり、第二部は霊的な事柄を扱っていて建設的である。この是正的な、肉的な事柄と、建設的な、霊的な事柄との間には、一つの著しい均衡が見いだされるのである。
これに対して、旧約聖書は、へブル民族を通じて全民族にメシアを来たらせるために神がこの民族を存立させられたことの物語です。物語ですから、話は具体的で、時系列です。また旧約聖書は、来るべきメシアへの賛歌でもあります。しかもこの賛歌は、低く、取留めなく、おぼろな調子で始まるが、時を経るにしたがってその調べは強さを増し、近づきつつある王を待つ、明瞭で、熱烈で、豊富で、歓喜にあふれる旋律となっていきます。その間に、神は摂理の手をもって、諸民族に備えさせられるのです。
旧約聖書は39巻あります。①歴史書17巻(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記(第一、第二)、列王記(第一、第二)、歴代誌(第一、第二)、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記からなり、②その他に詩書5巻(ヨブ記、詩篇、箴言、伝道者の書、雅歌からなる)、③預言書(17巻)(イザヤ書、エレミヤ書、哀歌、エゼキエル書、ダニエル書、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書からなる)から構成される大著です。各書には主題と思想がありますが、煩雑ですので書かないでおきます。
旧約聖書の最初の5書は、「律法」とか、「モーセの5書」とか呼ばれていますが、本来は一つの書として書かれたものですので、連続性と調和があります。その中でも、「出エジプト記」は始まりの書として、へブル民族と神が契約を結ぶ重要な書です。①モーセ自身が体験したこと、②神から受けた啓示、③それまでに残されていた様々な記録のまとめ、④イエスはモーセがこの書の著者であることを認めています。
「出エジプト記」の執筆目的を理解することは、極めて重要です。モーセは、カナンの地に入る直前のイスラエル人のためにこれを書きました。彼らは、出エジプト後に誕生した世代、つまり、イスラエルの歴史や出エジプトの歴史を知らない世代です。彼らに必要なのは、自らのアイデンテティの確立と、カナンの地で生きる目的をしっかりと把握することです。その目的とは、契約の民としていき、神に栄光を帰すことです。
出エジプト記の冒頭の1章から12章までは、エジプトで苦しむイスラエルの民のことが書かれています。エジプトは、人類史上最初の反ユダヤ主義の国になりました。つまり国策として反ユダヤ主義を採用したのです。エジプトのファラオたちは、①イスラエルの民に過酷な労働を課し、②男児殺害命令を出し、③嬰児をナイル川で溺死させよと命じました。モーセの両親は、信仰と知恵によって幼子をナイル川に浮かべ、その命を救いました。モーセは誕生から40歳までエジプトの王女に助けられ、王宮で帝王学を学びます。40歳から80歳までに彼は、王宮から出て逃亡者としての生活をします。ミディアンの荒野で羊飼いとしての経験を積み、80歳から120歳までに、神からの召命に応じ、解放者としてエジプトに立ち向かいます。モーセが歴史書に残された誰であるかは、現在までわかっていません。また出エジプト時代のパロ(王)は誰かについても、アメンホテプ2世(前1450‐1420)とする説とまたはメルネプタ(前1235―1220)とする説があります。出エジプトがメルネプタの時とすれば、イスラエル人の大圧迫者はラメセス2世で、その娘がモーセを育てたことになります。アメンホテプ2世、トトメス3世、またはラメセス2世か、メルネプタか、どちらかの時代にモーセはイスラエル人をエジプトから連れ出したと言えます。これら4人の王のミイラは全部発見されており、モーセ時代のパロの顔を今日われわれは見ることができます。
一方イスラエルの民には、全人類を祝福するという使命が与えられています。エジプトを脱出してカナンの地に入るのはその使命のためです。12章から18章には、エジプトを脱出してシナイ山に移動するイスラエルの民が書かれています。徒歩の壮年男子だけで約60万人が、エジプトを脱出しました。イスラエルの民がエジプトに滞在した年数は、430年間でした。カナンの地に達するのに、神は、最短コースではなく、葦の海に沿う荒野の道をたどるように導かれました。イスラエルの民は、葦の海を渡る奇跡を体験する必要がありました。
逃亡したイスラエル人を追って、海を渡ろうとしたエジプトの軍勢は、溺死しました。イスラエルの民は、大いなる解放が実現し、神のみ名をほめたたえました。イスラエル人奴隷たちをエジプト脱出に導いたのはモーセでしたが、このモーセという名はエジプト名です。モーセは、ヘブライの両親の子でしたので、その両親がつけた名前があるはずですが、なぜかエジプト名が使われています。
この解放劇によって、イスラエル国家が誕生しました。出エジプトの出来事は、イスラエル国家の始まりとなりました。19章から40勝までは、シナイ山で神と契約を結ぶイスラエルの民が書かれています。シナイ契約です。「『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せて、わたしのもとに連れてきたことを見た。今、もしあなたがたが確かに私の声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界は私のものであるから。あなたがたは私にとって祭祀の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである」(出エジプト19:4-6)
シナイ契約は条件付き契約であり、その契約条項がモーセの律法です。モーセの律法は、行いによる救いを教えたものではありません。いつの時代にも、救いは「信仰と恵みによって」与えられます。モーセの律法への従順は、当時の人々の信仰表現です。
イスラエルの民は、モーセによって肉体的出エジプトを経験しました。私たちは、キリストによって霊的出エジプトを経験します。出エジプトは、私たちの物語でもあります。パレスチナに到着したへブル民族が、ヨシュアの指導の下で、奪取のための闘いが繰り広げられます。パレスチナの王から、エジプトの王に救援を依頼する文書(アマルナ文書)が残されています。「ハビル(へブル)は我々の要塞を奪取している。彼らはわれわれの町を奪おうとしている。われらの統治者を滅ぼそうとしている。彼らは王(アメンホテプ2世)の全土を略奪している。王よ、速やかに軍隊をお送りになるように。もし軍隊が年内に来なければ、王は全国土を失われるでしょう。」王がメルネプタの可能性もあります。もしメルネプタとするなら、「イスラエル碑石」が残されており、この碑石は現在カイロ博物館にあります。碑文には「カナンは略奪された、イスラエルは荒廃した。その種はいなくなった。パレスチナはエジプトにとってやもめとなった。」と書かれてあります。
書かれたユダヤ教の成立
ユダヤ教について知ることはキリスト教を知り、理解する上で極めて重要です。ユダヤ教とは、旧約聖書に記された内容ですが、新約聖書は旧約聖書の土台の上に立っています。ユダヤ教は、唯一絶対の神を信仰するユダヤ人の民族宗教です。モーセの律法と神との契約に基づき、選民思想・終末論およびメシアの来臨を信ずることなどが特徴です。
旧約聖書には、39巻あり、内訳は歴史書17巻、詩書5巻、預言書17巻です。歴史書のうち、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の5巻は、モーセ5書とよばれ、本来は一つの書として書かれたものです。歴史書は、モーセ5書のほかに、ヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記(第一、第二)、列王記(第一、第二)、歴代誌(第一、第二)、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記があります。ユダヤ教の中心はトーラー(律法とも訳されます)で、狭い意味ではモーセ5書、の部分を言いますが、それを補足・解説するものとして預言書・諸書をも含み得ます。
「書かれたトーラー」の意味を特定の解釈原理によって解き明かしたしたものをミドラシュといいます。ミドラシュは各時代のユダヤの信仰を知るうえで重要です。すでに紀元前において、モーセ5書は、聖書中格別の位置を占めるものとものと信じられてきており、異なった社会的・文化的環境の中にあるユダヤ人は、トーラーの教えを現代化する必要がありました。トーラーは、テーマ別に配列・整理され2世紀から3世紀にかけてミシュナとよばれるものが成立します。トーラーとミシュナを併せたものを普通にはタルムードといいます。
ユダヤ教はバビロン捕囚から帰還後の前517年、エルサレム神殿の再建・祭祀(さいし)の確立をもって成立したとされます。キリスト教では、旧約聖書の続編を新約聖書としていますが、ユダヤ人は、旧約聖書の続編をミシュナ・タルムードといっています。
前13世紀末に,イスラエル人はパレスチナ(カナン)に侵入して〈約束の地〉に定着します。前10世紀(1000年)ころ,ユダ族出身のダビデが王となり,シリア・パレスティナ全域にまたがる大帝国を建設し,エルサレムを首都に定めます。その子ソロモンが,エルサレムのシオンの丘に主の神殿を建立すると,主はダビデ家をイスラエルの支配者として選び,シオンを主の名を置く唯一の場所に定める約束をした,と理解されました(〈ダビデ契約〉)。ここから,〈メシア〉(原義は〈即位に際して油を注がれた王〉)が,世の終りにダビデ家の子孫から現れるという期待と,エルサレム(シオン)を最も重要な聖地とする信仰が生じました。
前586年にユダ王国が滅亡し,エルサレム神殿が破壊されて古代イスラエル時代は終わります。その後約半世紀続いたバビロン捕囚の苦難を通して,古代イスラエルの宗教的遺産を民族存続の基本原理とする共同体〈ユダヤ人〉が成立しました。前538年にペルシアのキュロス2世が捕囚民の解放令を発布すると,一部のユダヤ人は故国に帰還して,エルサレム神殿を再建しました。これを第2神殿と呼びます。以後,後70年にローマ人が第2神殿を破壊するまで,ユダヤ人は,エルサレム神殿を中心とする民族的・宗教的共同体として自己形成をしました。
しかし,この共同体の独自の生き方を決定したのは,前5世紀中葉に,バビロニアから〈モーセの律法〉の巻物を携えて来たエズラでした。彼は律法を公衆の面前で朗読すると同時に解説しました。エズラは,この時代までに変更不可能な聖典として成立していた成文律法を,変化する現実に適用する方法を教えた最初の律法学者でした。エズラ以後,ユダヤ人は,成文律法の解釈のほかに,より広範囲な権威に基づいて決定された法規にも,成文律法と同等の神聖な権威を認め,これを口伝律法と呼びました。
以後1000年間に,口伝律法は発展し,膨大な集積となりました。口伝律法の研究と発展に携わった律法学者が,ラビという尊称で呼ばれたことから,この時代に形成されたユダヤ教を,特に〈ラビのユダヤ教〉と呼びます。長い間,口伝律法は口頭で伝承されていましたが,後200年ころ,総主教ユダ(イェフダ)によってミシュナに集成されました。その後さらに300年間,ミシュナの本文に基づく口伝律法の研究が積み重ねられた結果,4世紀末に〈エルサレム(別名パレスティナ)・タルムード〉,5世紀末に〈バビロニア・タルムード〉の編纂が完結しました。ミシュナとタルムードは,成文律法を中心として1世紀末に成立した旧約聖書とともに,ユダヤ教の聖典となりました。
〈ラビのユダヤ教〉時代は,ユダヤ民族が何度も絶滅の危機にさらされた激動の時代でした。まず,前4世紀末,アレクサンドロス大王の東征によって引き起こされたヘレニズム化の波が,政治的・文化的衝撃となってユダヤ人共同体の存立を根底から揺るがしました。特にセレウコス朝シリアの王アンティオコス4世は,ユダヤを征服すると,ユダヤ教を禁止してヘレニズム化政策を強行しました。信仰を守るため蜂起したユダヤ人は,マカベア党を中心とする反乱(マカベア戦争)を起こし,長い苦闘の末,マカベア(ハスモン)家によるユダヤの独立を回復しました。
しかし前63年には,ユダヤはローマの属領となり,ローマの属王ヘロデの支配を受けます。過酷なヘロデの支配に続いて,ローマ人総督が悪政の限りを尽くしたため,ついにユダヤ人は大反乱を起こしました(ユダヤ戦争。66-70年)。一時はローマ軍の排除に成功しましたが,結局反乱は鎮圧され,エルサレム神殿は完全に破壊されてしまいました。
このときまで,ユダヤ人は神殿祭儀を宗教活動の中心とみなしてきました。しかし,すでにバビロン捕囚時代から,神殿祭儀なしに民族的・宗教的共同体を維持する努力が払われてきていました。その結果,第2神殿時代を通じて,礼拝と律法研究のために,安息日(シャバット)ごとに各居住地の成員が集まるシナゴーグ(集会所)が発達していました。
パリサイ派律法学者たちは,シナゴーグを活動の本拠としていたため,神殿の破壊から本質的な打撃を被りませんでした。彼らは海岸地方のヤブネに集まり,それまで神殿にあったサンヘドリン(議会)を再興して,律法と律法解釈に基づくユダヤ人共同体の形成・維持を続行しました。第2反乱(132-135)によってヤブネが破壊されると,ユダヤ人共同体の中心はガリラヤに移り,5世紀初頭に,キリスト教を国教とするローマ帝国の弾圧によってユダヤ総主教職が廃止されるまで続きました。
ペルシア時代以来,多数のユダヤ人が,パレスティナ本国以外の世界各地に居住していました。彼らをディアスポラ(離散民)と呼びます。ディアスポラは,ヘレニズム・ローマ時代に大発展を遂げ,1世紀に,その人口は本国のユダヤ人の数十倍に達していました。大部分はローマ帝国内にいたが,再度にわたる反乱の際に,ディアスポラも厳しい弾圧を受けたため,ローマ帝国の支配圏外にあったバビロニアのディアスポラが徐々にユダヤ人世界の中心になっていきました。
特に5世紀以降は,バビロニア各地にあった教学院(イェシバーyeshivah)に集まった律法学者たちが,〈ラビのユダヤ教〉を完成する任務を遂行しました。その結果,ユダヤ民族・宗教共同体の歴史的軌跡であり,その生き方の基準である口伝律法の集大成として,〈バビロニア・タルムード〉が編纂されました。
中世以後,現代に至るユダヤ教は,〈ラビのユダヤ教〉が確立した教義の展開です。この間に,ユダヤ人世界の中心は,周辺世界の情勢に応じて世界各地を転々と移りました。10世紀まで,前時代の伝統を継承したバビロニアが中心であったが,それ以後ユダヤ人共同体は,イスラム教徒が支配する北アフリカとスペインで繁栄しました。当時,カライ派Karaitesと呼ばれるセクトが発生し,口伝律法の権威を否定して各自が成文律法(旧約聖書)を直接解釈するべきであると説きました。一時,大勢力になったが,結局,余りにも厳格な律法主義に陥り,広く民衆の支持をえることができなかったため急速に衰退しました。
ユダヤ人世界には,11世紀までに,スペインを中心とするイスラム教圏のスファラド系(セファルディム)と,ヨーロッパ・キリスト教圏のアシュケナーズ系(アシュケナジム)の二つの大きな文化的伝統が確立しました。10世紀以降,アシュケナーズ系ユダヤ学がライン川流域地方で盛んになり,西ヨーロッパ全域に大きな影響を及ぼしました。中世最大のユダヤ学者マイモニデスは,スファラド系哲学とアシュケナーズ系ユダヤ学を総合した人物です。
第1回十字軍(1096-99)とともに,キリスト教ヨーロッパは,血腥(なまぐさ)いユダヤ人迫害の歴史を開始しました。以後,西ヨーロッパ各地で迫害を受け,追放されたユダヤ人は大挙して東ヨーロッパに逃亡しました。その結果,中世以後20世紀前半まで,東ヨーロッパがアシュケナーズ系文化の中心となりました。
他方,キリスト教化したスペインから15世紀末に追放されたスファラド系ユダヤ人は,中東各地に移住しました。その一部が定着したパレスティナのツファットは,16世紀にカバラ神秘主義の中心となりました。カバラの起源は,ヘレニズム・ローマ時代のユダヤ人が著作した黙示文学です。これらの著作は,現在を悪が支配する世界とみなし,やがて到来する世の終りに,神が悪の力を滅ぼして正義を確立するという世界観と,神秘的表象を用いる点に特徴があります。現世における厳しい迫害に絶望した中世のユダヤ人が,終末時に来臨するメシアが民族と宇宙を救うという黙示思想に共感して,カバラ神秘主義を発展させてきました。しかし,終末の救済の秘儀にあずかるためには,律法を順守しなければならないというカバラの結論は,正統的な〈ラビのユダヤ教〉への回帰にほかなりませんでした。
カバラ神秘主義の影響下に,16~17世紀には,自称メシアが各地で出現しました。その一人,サバタイ・ツビのメシア運動は,一時全ユダヤ人世界を巻き込むほどの大成功を収めました。しかし,この偽メシアはトルコのスルタンに逮捕されると,イスラム教に改宗しました(1666)。サバタイ騒動が残した深刻な精神的危機を克服する試みの中から,東ヨーロッパでハシディズム運動が起こりました。ウクライナの貧民出身のバアル・シェムトーブBaal
Shem Tov(1698-1760)は法悦状態に没入し,祈禱において神と交わる神秘的救いの重要性を説いて,無味乾燥な律法主義にあきていたユダヤ人大衆の心をつかみました。しかし,正統派は,律法研究よりも法悦を重視するハシディズムを異端とみなし,〈ミトナグディームMitnaggedim〉(〈反対者〉の意)という運動を起こしました。半世紀に及ぶ激しい争いののち,19世紀初頭になると,両者は急速に和解しました。帝政ロシアの同化政策によるユダヤ人共同体の分解と,ハスカラーHaskalah(ユダヤ啓蒙主義)思想によるユダヤ教的伝統の破壊という,内外からの危機が迫ったからです。
17世紀後半に,西ヨーロッパにおいて,宗教的熱狂主義が終わり,中央集権的絶対主義と重商主義に基づく世俗的近代国家の形成が始まると,中世の宗教的伝統から個人の解放を目ざす啓蒙主義が,時代を支配する思潮となりました。その影響下に,ユダヤ人世界においては,ハスカラーと呼ばれる啓蒙主義運動が起こりました。
カントと並ぶ当代最大の哲学者として尊敬されたM.メンデルスゾーンを精神的父と仰ぐユダヤ人啓蒙主義者は,ユダヤ人固有の文化を捨ててヨーロッパの世俗文化を学ぶことが,中世以来の社会的差別からユダヤ人を解放する前提であると考えました。19世紀に,民族主義に基づく近代国家が成立すると,彼らは,ユダヤ教の伝統的教義である民族と宗教の間の不可分な関係を否定する〈改革派ユダヤ教〉を創設しました。
現在,ユダヤ人はいずれも概数で,イスラエルに360万,アメリカ合衆国に600万,旧ソ連に140万,ヨーロッパ諸国に130万,その他の地域を合わせて計1400万人います。イスラエルのユダヤ人人口の4倍に達するディアスポラは,各自が居住する国家のユダヤ教徒市民です。しかし,イスラエルは,1950年に帰還法を制定して,これらのディアスポラがイスラエル移住を希望すれば,ただちにイスラエル市民権を与えると約束します。これは,イスラエルをユダヤ人の〈祖国〉として建設したシオニズムの理念に基づく決定であるが,民族と宗教の関係は不可分であるという伝統的教義の確認でもある。この教義は,政教分離をたてまえとする現代国家イスラエルにとって,複雑な問題を提供しています。事実上,ユダヤ教の宗教法は,イスラエルの市民生活を規制しています。そこで,市民生活に宗教法を強制的に適用することに対しては,つねに多数の市民が反発しているが,ナチスの犠牲者600万人を〈殉教者〉として弔うことに異議を唱える市民は少ない。
他方,現在最大のユダヤ人共同体を形成するアメリカのユダヤ人は,共同体の内的崩壊により,アメリカ社会に同化吸収される危険を感じている。アメリカでは,〈ラビのユダヤ教〉の伝統的戒律を文字どおり順守する正統派のほかに,倫理的戒律と生活的戒律を区別して,後者は精神的解釈にとどめようとする改革派と,両派の中間的立場をとって,戒律の歴史的発展を主張する保守派の3派が均衡を保って並存している。しかし,シナゴーグの礼拝に参加するユダヤ人は,全人口の4分の1にとどまり,適齢期の男女の5人に1人は非ユダヤ人と結婚するため,アメリカのユダヤ人共同体の存続を問題視する説がある。これに対して,ソ連のユダヤ人共同体は,国家の強制的同化政策によって消滅の危機にさらされていた。しかし,そのためにかえってユダヤ人であることの意識を強くもち,反体制運動に参加する多数のユダヤ人がいた。アメリカのユダヤ人もソ連のユダヤ人も,アラブ諸国と戦争状態を続けるイスラエルの運命に深い関心を抱いており,そのことが,彼らのユダヤ人としての自意識を支えていることも事実である。ユダヤ教徒は民族なのか,信徒集団なのか,という問題は,簡単に割り切ることができない歴史的問題なのです。
<教義と戒律>
〈ラビのユダヤ教〉は613の戒律を定める。これらの義務律248戒と禁止律365戒は,狭義の宗教的戒律のほかに,倫理的戒律と生活的戒律を含み,民族共同体の生き方そのものが宗教であるユダヤ教の特徴を表している。ユダヤ教において,神の存在は自明な真理であって,その証明を必要としない。神は唯一であり,その統一された意志の下に,宇宙が創造され,イスラエルが選ばれ,歴史が運営されている。神はどのようなかたちも取らず宇宙を超越した存在であるが,同時に宇宙に遍在しているから,神に向かって祈る個人にも神は来臨し,滞留(シェキーナー)する。神は全知全能であり,聖にして完全な存在,永遠の生者である。彼は,憐れみによって世界と人間を創造し,正義によってこれを支配する。
人間は神のかたちに創造された存在であり,人生の目的は,現在なお進行中の神の創造の業に参加し,これを完成して創造主に栄光を帰すことである。したがって,人間は神のように恵み深く,憐れみに富み,正しく完全でなければならない。
しかし,人間の本性の中には悪の衝動が含まれているから,これを押さえて神の創造の業に参加することは,各人が自由意志に基づいて決定しなければならない。神の意志に反抗することが罪である。具体的には,十戒を代表とする律法に定められた戒律違反が罪であるが,特に重罪として,偶像礼拝,姦淫,殺人,中傷の4罪がある。いずれも,神のかたちに造られた人間の尊厳と,選民による共同体の形成にかかわっている。人間は罪を犯しやすい弱い存在であるが,憐れみ深い神は,悔い改めた罪人を必ず許す。しかし,正義の確立によって宇宙創造の完成を目ざす全能の神は,死後も各人の責任を追及する。
そこで,この世の終りに,神はメシアを派遣して神の王国の建設を準備させる。その後で来るべき世界が始まると,すべての死者はよみがえり,生前の行為に応じて最後の審判を受ける。その結果,罪人は永遠の滅びに落とされ,義人は永遠の生命を受ける。このような神の姿と人間の運命を示す律法が選民イスラエルに啓示されて以来,律法を順守して神の意志を全世界の諸民族に伝えることが,イスラエルの任務となった。〈シェマ・イスラエルShema‘
Israel(聞けイスラエル)〉は,唯一の神に対する中心的信仰告白である。〈聞けイスラエル,我らの神,主は唯一の主なり。汝,全心,全霊,全力を尽くして汝の神,主を愛すべし〉(《申命記》6:4)。ユダヤ教徒は,この告白を書きつけた羊皮紙を収めた革の小箱(テフィリンtefillin)を,一つは左上腕に,もう一つは額に巻きつけて朝禱を捧げる。朝,昼,晩と1日に3度〈アミダーamidah(立禱)〉を起立して祈る。これは,父祖の神の全能と聖名の賛美に始まり,神のシオン帰還とイスラエルの祝福で終わる19項目の祈禱であるが,本来は18項目であったことから,〈シュモネー・エスレーshemoneh-esreh〉(〈18の祝禱〉の意)と呼ばれる。立禱は個人で祈ってもよいが,正式には成人男子10人以上の集団(ミヌヤンminyan)で祈ることになっている。
安息日ごとに行われる公の礼拝の中心は,律法(〈モーセ五書〉)の朗読である。律法は,毎週1区分ずつ朗読して,1年間で読了するよう54区分されている。安息日は,金曜日の日没に始まり土曜日の日没に終わるが,神の恵みの業(わざ)を思い起こすため,すべての労働を休む神聖な日である。
ユダヤ暦は太陰暦で,太陽暦の9~10月に始まる秋年である。次のような祝祭日がある。新年祭(ティシュリ月1日)--神の世界創造を記念し最後の審判を思う。贖罪日(同10日)--断食をして罪の許しを乞う。仮庵の祭(同15~21日)--エジプト脱出後の荒野放浪の記念。律法の歓喜祭(同22日)--1年かかった律法の読了を祝う。ハヌカ祭(キスレウ月25日~テベト月2日)--前164年のエルサレム神殿奪回の記念。プリム祭(アダル月14~15日)--エステルがユダヤ人を救った伝承の記念。過越の祭(ニサン月15~21日)--エジプト脱出の記念。七週祭(シワン月6日)--モーセに十誡が授けられたことの記念。アブ月9日祭--エルサレム神殿の破壊を嘆く。
安息日と祝祭日の食事は,家庭で守らなければならない。したがって,家庭を形成するために結婚することは,重要な戒律として定められている。男子は生後8日目に割礼を受け,同時に命名される。これは,新生児が〈アブラハム契約〉に参加してユダヤ人共同体の一員になったことを示す儀式である。少年は13歳で〈バル・ミツバーbar
mitzvah〉(〈戒律の子〉の意)という成人式を行い,戒律を守る義務を負う。祭儀的な潔,不潔の区別が重んじられ,しばしば汚れを清めるために洗手,水浴などを行う。また,〈カシュルートkashrut(適正食品規定)〉に従って,不潔と定められた豚肉などの食用,肉とミルクの混食などが禁じられている。これらの規定は,聖別された選民の身分を守るための戒律である。
ユダヤ教の歴史は民族の歴史とともに古い。セム人に属する半遊牧的なユダヤ人の祖先が、民族移動の大きな波のなかでメソポタミアから地中海東岸沿いの地に定住するようになったのは、紀元前18世紀ごろのことと考古学では推定する。
『旧約聖書』の「創世記」12章以下のアブラハムの記事はこのような状況を反映している。
ユダヤ教にとって歴史上画期的なできごとは、モーセの指導により民族がエジプトから脱出し、シナイ山において神ヤーウェと契約を結んだことであった。
紀元前10世紀にエルサレム神殿を建立してからの民族の歴史は、亡国、離散、迫害、虐殺という悲劇的な歩みの連続であり、つねに民族のアイデンティティを求める闘いであった。紀元後70年にローマの手で破壊されたエルサレム神殿の喪失は、ユダヤ教にとってとりわけ決定的な意味をもった。なぜなら、神殿祭儀を中心としていたそれまでのあり方が根本的に変質を迫られることになったからである。
このような状況によく対処しえたのは、律法の厳格な遵守を目ざすパリサイ派の流れをくむ規範的ユダヤ教の努力の結果であった。彼らは、神殿祭儀にかえてシナゴーグでの祈りや日常的な律法研究を重視し、神のことばとしての律法のなかにユダヤ人としての行動の規範を追求した。成文律法のほかに口伝(くでん)の伝承をも認める立場が、危機的状況に対処しうる弾力性を与えたといえよう。この口伝律法はその後タルムードに集大成されてユダヤ教徒の生活と行動の規範となったものであり、現在にまで続くユダヤ教の性格を決定することとなった。
ユダヤ教がタルムード以後規範的宗教としての特質を強調すればするほど、この規範性によっては満たしえない人間の宗教的心情を重視する神秘主義的傾向も大きな流れとなって展開する。
これは、律法やタルムードの文字の背後に隠されている真理を霊的努力によって把握しようとする思想であり、中世スペインやパレスチナで盛んとなった。カバラとよばれるこのユダヤ教神秘主義思想は『ゾハール』(光輝の書)などに代表されている。この流れのなかから、近代に入って、祈りに精神を集中することによって神との神秘的交わりを得ることを願うハシディズムがポーランドにおこり、東欧ユダヤ人の心をとらえていった。
ユダヤ人は中世を通じて宗教的にも文化的にも、また社会的にも離散社会のなかで孤立した生活を続けてきた。しかし近代西ヨーロッパの啓蒙(けいもう)思潮は彼らのうえにも例外なく及び、人間性の解放として展開する。しかし彼らの場合、人間性の解放は同時に民族性の排除でもあった。この動きのなかからドイツで誕生した改革派は、シナゴーグ礼拝の近代化を推し進めたが、祈祷(きとう)書からシオンの再建とエルサレム神殿祭儀の復活を削除するなど、民族性排除の傾向をはっきりとうかがわせる。彼らは普遍性の高い預言者の倫理思想をとくに強調した。この改革派がもっとも自由に活躍しえたのは、伝統の束縛がないアメリカ合衆国においてであった。
伝統と現代性との間の緊張を問題としつつも、あまりに過激に走る改革派の動きについてゆけぬ人々の間から保守派ユダヤ教が生まれた。彼らは伝統的ユダヤ教の本質をたいせつに維持しながら、歴史に根拠のある改革を受け入れ、現代社会への適応性を高めようとした。このために。イエスが神によって託された使命は十字架上で死なれることでした。は、ユダヤ教の歩んできた道を歴史的に検証する必要があり、いわゆる「ユダヤ学」発展の契機となった。
19世紀の改革派、保守派の動きに同調しなかったヨーロッパのユダヤ人はすべて正統派とよばれる。正統派のうちでもごく一部の人々はいっさいの変革を拒否し、中世的伝統主義ユダヤ教を保守しようとする。彼らはテレビ、新聞をはじめ、現代文化を受け入れない。しかしその他の大部分は、いわゆる新正統派とよばれる人々で、現代社会の文化価値を受け入れる。これは、時代の流れへの譲歩ではなく、環境社会の文化を吸収し、かつその社会のことばでユダヤ教の価値と思想を表現するのは、過去の歴史に明らかなごとくユダヤ教本来の必然性である、と理解するからである。歴史批評的研究方法を彼らが受けつけないことはもちろんだが、日常行動の諸規定であるハラハーHalachaの解釈と基準の適用にはそれでも柔軟性が認められる。このように現代では正統派、保守派、改革派の三派が並存しているのが現状である。
ユダヤ教の聖典はヘブライ語の聖書である(内容的にはプロテスタント・キリスト教の『旧約聖書』と共通)。とくに冒頭の「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記(しんめいき)」のいわゆる「モーセ五書」はトーラー(律法)とよばれて神聖視されている。神がその意志をモーセに直接啓示した内容と信じられているからである。しかし後のユダヤ教の伝承によれば、シナイ山でモーセが受けた啓示の内容は、成文化されているトーラーだけではなく、口伝の律法をも含むと考えられた(ミシュナ・アボット1.1以下参照)。したがって成文律法(モーセ五書)と並んで口伝律法(ミシュナ)がともに神的権威をもつものと受けとめられてきた。このミシュナは200年ごろラビ・ユダによって結集され、その後パレスチナ、メソポタミア両地の律法学者がこれを基本テキストとして多様な議論を展開し、かつ注釈を加えていった。この議論および注釈をミシュナ本文とあわせて集大成したのがタルムードである。4世紀後半にパレスチナで完成したものはエルサレム(パレスチナ)・タルムードとよばれ、これとは別にメソポタミア地域の学者の成果を500年ごろ集成したのがバビロニア・タルムードとなった。
祖国を失い世界の各地に離散したユダヤ人がタルムードの示す宗教的行動規範に従うことによって、ユダヤ人としてのアイデンティティを保持することができたのである。「持ち運びのできる祖国」(C・ロス)と称されるゆえんである。したがってユダヤ教にとってタルムードは聖典に準じるものとしての位置づけをもっているといってよい。
<安息日と祭り>
1週間の生活でもっとも重要な「時」は安息日である。金曜の日没から土曜の夕までの1日である。この日ユダヤ人はいっさいの日常の仕事に従事することを禁じられている。神のみが存在するいっさいの創造者であり、主であることを認識するために、自然界と人間が営む世界への働きかけからユダヤ人は身を退けなければならない、とされる。
古代イスラエルにはエルサレム神殿に詣(もう)でる三大巡礼祭があった。仮庵(かりいお)祭(スッコート)、過越(すぎこし)祭(ペサッハ)、五旬節(シャブオート)である。いずれも収穫に関連した農耕的な祭りであったが、歴史のできごとと結び付けられて神殿喪失後現在に至るまで祝われ続けている。仮庵祭はエジプト脱出後の荒野での生活、過越祭はエジプト脱出時の奇跡的故事、五旬節はシナイ山におけるトーラーの啓示を記念する行事である。
ユダヤ人の暦では秋のティシュリの月に1年が始まる。月初めに新年祭(ローシュ・ハッシャナ)を祝い、その月の10日に贖罪(しょくざい)の日(ヨーム・キップール)を迎える。この日はユダヤ教におけるもっとも厳粛なときであり、悔い改めと神の赦(ゆる)しを求めてこの日一日完全に断食(だんじき)を守り、シナゴーグで祈りに終始する。罪を告白し、人間の至らなさを悔いるとともに神の無限の慈(いつく)しみをたたえ、心にしみ渡るコル・ニドレイの壮重な調べにのせて宗教的な誓いの束縛からユダヤ人が解放されることを願う。
このほかに12月に8日間のハヌカー祭がある。前2世紀中ごろセレウコス家(シリア)の支配をはねのけて、穢(けが)された神殿を潔(きよ)めて再奉献したことを祝う。また一説には、わずか一壺(つぼ)の穢れていない油が神殿再奉献の際8日間も灯明(とうみょう)として燃え続けた奇跡を記念するともいわれる。八枝の燭台(しょくだい)を窓辺でともす慣習がある。また春のアダルの月14日には、「エステル記」に語られるユダヤ人の救いを記念したプリムの祭りが祝われる。
新約聖書「マタイによる福音書」にはイエス・キリストの系図が出てくる。
1 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。
2 アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、 3 ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、
4 アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、 5 サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、
6 エッサイにダビデ王が生まれた。
ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、 7 ソロモンにレハベアムが生まれ、レハベアムにアビヤが生まれ、アビヤにアサが生まれ、 8 アサにヨサパテが生まれ、ヨサパテにヨラムが生まれ、ヨラムにウジヤが生まれ、
9 ウジヤにヨタムが生まれ、ヨタムにアハズが生まれ、アハズにヒゼキヤが生まれ、 10 ヒゼキヤにマナセが生まれ、マナセにアモンが生まれ、アモンにヨシヤが生まれ、
11 ヨシヤに、バビロン移住のころエコニヤとその兄弟たちが生まれた。
12 バビロン移住の後、エコニヤにサラテルが生まれ、サラテルにゾロバベルが生まれ、 13 ゾロバベルにアビウデが生まれ、アビウデにエリヤキムが生まれ、エリヤキムにアゾルが生まれ、
14 アゾルにサドクが生まれ、サドクにアキムが生まれ、アキムにエリウデが生まれ、 15 エリウデにエレアザルが生まれ、エレアザルにマタンが生まれ、マタンにヤコブが生まれ、
16 ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。
17 それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。
イエスキリストの血液に、ルツの血が入っていることが書かれている。ルツはルツ記に、二人の息子がモアブの女を妻に迎え、2人の一人がルツであったことが記されている。また信仰によって、ヨシュアの偵察隊を助けたラハブも出てくる。「遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。」ダビデ王には、異邦人の血が入っているのである。バビロン移住からキリストまでに、十四代とあり、人間イエス・キリストは、ユダヤ人であったことが分かる。
またカール・マルクスもユダヤ人である。カール・マルクスとは、「資本主義」と戦った社会思想家である。カール・マルクスは、資本主義社会で生まれ、育ち、資本主義が不完全な社会制度であることに気づき、この社会を変革しようと戦った人間である。マルクスは彼なりの「出エジプト」を試みたのである。
ユダヤ教を学ぼう
聖書を学ぼうとする方は、新約聖書から読み始め、イエスの降誕と幼少時代、バプテスマのヨハネの活動、イエスのバプテスマ、荒野でイエスになされた様々な誘惑、カナで行われた最初の奇跡、初期ユダヤ人伝道、ガリラヤ伝道、エルサレム訪問、ペレヤ伝道、後期ユダヤ伝道、最後の1週間、復活と宣教を、読み、主の十字架の場面では涙することでしょう。イエスは伝道をされましたが、伝道活動は弟子たちに託されていました。ご自分の働きの収穫を選ばれた12使徒に任されました。ご自分の働きの収穫を12使徒たちに託されたのです。。イエスが神によって託された使命は十字架上で死なれることでした。イエスは十字架上で死なれた後、ご自分の霊によって弟子たちを導きました。2年間の弟子に対する訓練の後、イエスは弟子たちを地の果てまでの証人として遣わされました。新約聖書には弟子たちの働きの一部分、パレスチナ、小アジア、ギリシャ、ローマと、ペテロ、ヨハネ、パウロの働きだけが記されています。おそらく、十二使徒たちは、異なった方向に向かうように協定したと思われます。または各自が最善と思う地に導かれたのかもしれません。彼らは期間を定めて、2人ずつ出かけました。そして他の人々の働きの場を訪れ、教会確立に尽力されました。紀元後62年ごろ、パウロは「この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられている」と言いました。(コロ1:23)キリストの物語は30年たたないうちに当時の全世界に伝えられたのです。伝承によれば、12使徒はほとんどキリストに対する証言を殉教によって証印しました。
イエスの教えの中心は、山上の説教に書かれています。マタイには、説教は山上で、ルカには山を下り平らなところでなされた、とあります。イエスの教えのなかでも、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」、「敵を愛しなさい」、「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい」などは、われわれには自分自身には実現不可能のように思えるかもしれません。しかし、イエスご自身はそのように生活されて、われわれがどのように誤った取り扱いを受けた場合でも、憤りの心を起こさないで、さらに加害者の幸福を実際に求め、われわれを憎む人々にも愛の心をむけるように明白に教えられました。
教会加入を許された最初の異邦人はローマ兵でした。(使10:1)兵役の放棄は要求されませんでした。裁判官、警察官、軍人などは、法律の維持に責任ある官吏として、正義の原則には厳格に従わなければならないが、個人としては極力、心においても生活においても、黄金律を実行することになるでしょう。
イエスは「枕するところもない」ほど、貧しかった。約3年間を旅行で過ごし、その間相当多くの者がイエスに従った。また少なくても2回、大きな伝道隊を組織されました。彼らは人々から、歓迎されることもありました(マタ10:11)。イエスは富裕な人々その他から献金を受けました。(ルカ8:3)イエスがそう思えば、多くの弟子や病人から一財産をこしらえ、王者のような生活ができました。しかし彼は貧しさのうちに生き、そして死んだ。
新約聖書の中心は、霊的な問題です。「コリント人への手紙」の解説書(G.C.モルガン博士著)の序言には次の言葉があります。「新約聖書の中で、『コリント人への手紙』ほど、現今の教会への適切なメッセージで満ちている手紙は、他にはほとんどないと言っても過言ではあるまい。『十字架の言』と『人の知恵』との争い、神の教会に起こる分裂、教役者への援助、復ア活の証拠、結婚、偶像礼拝、献物等の問題は、パウロがこの手紙を書いた初代教会時代と同様に、今日でも真面目に取り上げなければならない問題である。」とある。モルガン博士の、『コリント人への第一の手紙』冒頭でパウロがこの手紙の中で提出されている諸々の問題の答えにはすぐに取り掛からなかった。彼はまず、彼ら(コリント人)の状況の中で、気づいたいくつかの事実を扱った。次のとおりである。「さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。皆語ることを一つにし、お互いの間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結びあっていてほしい。私の兄弟たちよ。」かれ(パウロ)は手紙の第一部で、何を扱っていたか。彼は肉的なこと、この世の事柄、血肉の事柄、コリントの人々の中に入り込んできて彼らに対する証言と召命とをだめにしたような事柄を扱っていた。しかし、今度は(まるで「こうした事柄はもう御免こうむりたい、そして、もっと高い、もっと善い、建設的な事柄を扱いたい」と言うかのように)「霊的な事柄については…」と言う。これがこの手紙をはっきり区切る線である。手紙全体をこのように扱うことができる。第一は肉的な事柄を扱っていて是正的であり、第二部は霊的な事柄を扱っていて建設的である。この是正的な、肉的な事柄と、建設的な、霊的な事柄との間には、一つの著しい均衡が見いだされるのである。
これに対して、旧約聖書は、へブル民族を通じて全民族にメシアを来たらせるために神がこの民族を存立させられたことの物語です。物語ですから、話は具体的で、時系列です。また旧約聖書は、来るべきメシアへの賛歌でもあります。しかもこの賛歌は、低く、取留めなく、おぼろな調子で始まるが、時を経るにしたがってその調べは強さを増し、近づきつつある王を待つ、明瞭で、熱烈で、豊富で、歓喜にあふれる旋律となっていきます。その間に、神は摂理の手をもって、諸民族に備えさせられるのです。
旧約聖書は39巻あります。①歴史書17巻(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記(第一、第二)、列王記(第一、第二)、歴代誌(第一、第二)、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記からなり、②その他に詩書5巻(ヨブ記、詩篇、箴言、伝道者の書、雅歌からなる)、③預言書(17巻)(イザヤ書、エレミヤ書、哀歌、エゼキエル書、ダニエル書、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書からなる)から構成される大著です。各書には主題と思想がありますが、煩雑ですので書かないでおきます。
旧約聖書の最初の5書は、「律法」とか、「モーセの5書」とか呼ばれていますが、本来は一つの書として書かれたものですので、連続性と調和があります。その中でも、「出エジプト記」は始まりの書として、へブル民族と神が契約を結ぶ重要な書です。①モーセ自身が体験したこと、②神から受けた啓示、③それまでに残されていた様々な記録のまとめ、④イエスはモーセがこの書の著者であることを認めています。
「出エジプト記」の執筆目的を理解することは、極めて重要です。モーセは、カナンの地に入る直前のイスラエル人のためにこれを書きました。彼らは、出エジプト後に誕生した世代、つまり、イスラエルの歴史や出エジプトの歴史を知らない世代です。彼らに必要なのは、自らのアイデンテティの確立と、カナンの地で生きる目的をしっかりと把握することです。その目的とは、契約の民としていき、神に栄光を帰すことです。
出エジプト記の冒頭の1章から12章までは、エジプトで苦しむイスラエルの民のことが書かれています。エジプトは、人類史上最初の反ユダヤ主義の国になりました。つまり国策として反ユダヤ主義を採用したのです。エジプトのファラオたちは、①イスラエルの民に過酷な労働を課し、②男児殺害命令を出し、③嬰児をナイル川で溺死させよと命じました。モーセの両親は、信仰と知恵によって幼子をナイル川に浮かべ、その命を救いました。モーセは誕生から40歳までエジプトの王女に助けられ、王宮で帝王学を学びます。40歳から80歳までに彼は、王宮から出て逃亡者としての生活をします。ミディアンの荒野で羊飼いとしての経験を積み、80歳から120歳までに、神からの召命に応じ、解放者としてエジプトに立ち向かいます。モーセが歴史書に残された誰であるかは、現在までわかっていません。また出エジプト時代のパロ(王)は誰かについても、アメンホテプ2世(前1450‐1420)とする説とまたはメルネプタ(前1235―1220)とする説があります。出エジプトがメルネプタの時とすれば、イスラエル人の大圧迫者はラメセス2世で、その娘がモーセを育てたことになります。アメンホテプ2世、トトメス3世、またはラメセス2世か、メルネプタか、どちらかの時代にモーセはイスラエル人をエジプトから連れ出したと言えます。これら4人の王のミイラは全部発見されており、モーセ時代のパロの顔を今日われわれは見ることができます。
一方イスラエルの民には、全人類を祝福するという使命が与えられています。エジプトを脱出してカナンの地に入るのはその使命のためです。12章から18章には、エジプトを脱出してシナイ山に移動するイスラエルの民が書かれています。徒歩の壮年男子だけで約60万人が、エジプトを脱出しました。イスラエルの民がエジプトに滞在した年数は、430年間でした。カナンの地に達するのに、神は、最短コースではなく、葦の海に沿う荒野の道をたどるように導かれました。イスラエルの民は、葦の海を渡る奇跡を体験する必要がありました。
逃亡したイスラエル人を追って、海を渡ろうとしたエジプトの軍勢は、溺死しました。イスラエルの民は、大いなる解放が実現し、神のみ名をほめたたえました。イスラエル人奴隷たちをエジプト脱出に導いたのはモーセでしたが、このモーセという名はエジプト名です。モーセは、ヘブライの両親の子でしたので、その両親がつけた名前があるはずですが、なぜかエジプト名が使われています。
この解放劇によって、イスラエル国家が誕生しました。出エジプトの出来事は、イスラエル国家の始まりとなりました。19章から40勝までは、シナイ山で神と契約を結ぶイスラエルの民が書かれています。シナイ契約です。「『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せて、わたしのもとに連れてきたことを見た。今、もしあなたがたが確かに私の声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界は私のものであるから。あなたがたは私にとって祭祀の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである」(出エジプト19:4-6)
シナイ契約は条件付き契約であり、その契約条項がモーセの律法です。モーセの律法は、行いによる救いを教えたものではありません。いつの時代にも、救いは「信仰と恵みによって」与えられます。モーセの律法への従順は、当時の人々の信仰表現です。
イスラエルの民は、モーセによって肉体的出エジプトを経験しました。私たちは、キリストによって霊的出エジプトを経験します。出エジプトは、私たちの物語でもあります。パレスチナに到着したへブル民族が、ヨシュアの指導の下で、奪取のための闘いが繰り広げられます。パレスチナの王から、エジプトの王に救援を依頼する文書(アマルナ文書)が残されています。「ハビル(へブル)は我々の要塞を奪取している。彼らはわれわれの町を奪おうとしている。われらの統治者を滅ぼそうとしている。彼らは王(アメンホテプ2世)の全土を略奪している。王よ、速やかに軍隊をお送りになるように。もし軍隊が年内に来なければ、王は全国土を失われるでしょう。」王がメルネプタの可能性もあります。もしメルネプタとするなら、「イスラエル碑石」が残されており、この碑石は現在カイロ博物館にあります。碑文には「カナンは略奪された、イスラエルは荒廃した。その種はいなくなった。パレスチナはエジプトにとってやもめとなった。」と書かれてあります。
書かれたユダヤ教の成立
ユダヤ教について知ることはキリスト教を知り、理解する上で極めて重要です。ユダヤ教とは、旧約聖書に記された内容ですが、新約聖書は旧約聖書の土台の上に立っています。ユダヤ教は、唯一絶対の神を信仰するユダヤ人の民族宗教です。モーセの律法と神との契約に基づき、選民思想・終末論およびメシアの来臨を信ずることなどが特徴です。
旧約聖書には、39巻あり、内訳は歴史書17巻、詩書5巻、預言書17巻です。歴史書のうち、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の5巻は、モーセ5書とよばれ、本来は一つの書として書かれたものです。歴史書は、モーセ5書のほかに、ヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記(第一、第二)、列王記(第一、第二)、歴代誌(第一、第二)、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記があります。ユダヤ教の中心はトーラー(律法とも訳されます)で、狭い意味ではモーセ5書、の部分を言いますが、それを補足・解説するものとして預言書・諸書をも含み得ます。
「書かれたトーラー」の意味を特定の解釈原理によって解き明かしたしたものをミドラシュといいます。ミドラシュは各時代のユダヤの信仰を知るうえで重要です。すでに紀元前において、モーセ5書は、聖書中格別の位置を占めるものとものと信じられてきており、異なった社会的・文化的環境の中にあるユダヤ人は、トーラーの教えを現代化する必要がありました。トーラーは、テーマ別に配列・整理され2世紀から3世紀にかけてミシュナとよばれるものが成立します。トーラーとミシュナを併せたものを普通にはタルムードといいます。
ユダヤ教はバビロン捕囚から帰還後の前517年、エルサレム神殿の再建・祭祀(さいし)の確立をもって成立したとされます。キリスト教では、旧約聖書の続編を新約聖書としていますが、ユダヤ人は、旧約聖書の続編をミシュナ・タルムードといっています。
前13世紀末に,イスラエル人はパレスチナ(カナン)に侵入して〈約束の地〉に定着します。前10世紀(1000年)ころ,ユダ族出身のダビデが王となり,シリア・パレスティナ全域にまたがる大帝国を建設し,エルサレムを首都に定めます。その子ソロモンが,エルサレムのシオンの丘に主の神殿を建立すると,主はダビデ家をイスラエルの支配者として選び,シオンを主の名を置く唯一の場所に定める約束をした,と理解されました(〈ダビデ契約〉)。ここから,〈メシア〉(原義は〈即位に際して油を注がれた王〉)が,世の終りにダビデ家の子孫から現れるという期待と,エルサレム(シオン)を最も重要な聖地とする信仰が生じました。
前586年にユダ王国が滅亡し,エルサレム神殿が破壊されて古代イスラエル時代は終わります。その後約半世紀続いたバビロン捕囚の苦難を通して,古代イスラエルの宗教的遺産を民族存続の基本原理とする共同体〈ユダヤ人〉が成立しました。前538年にペルシアのキュロス2世が捕囚民の解放令を発布すると,一部のユダヤ人は故国に帰還して,エルサレム神殿を再建しました。これを第2神殿と呼びます。以後,後70年にローマ人が第2神殿を破壊するまで,ユダヤ人は,エルサレム神殿を中心とする民族的・宗教的共同体として自己形成をしました。
しかし,この共同体の独自の生き方を決定したのは,前5世紀中葉に,バビロニアから〈モーセの律法〉の巻物を携えて来たエズラでした。彼は律法を公衆の面前で朗読すると同時に解説しました。エズラは,この時代までに変更不可能な聖典として成立していた成文律法を,変化する現実に適用する方法を教えた最初の律法学者でした。エズラ以後,ユダヤ人は,成文律法の解釈のほかに,より広範囲な権威に基づいて決定された法規にも,成文律法と同等の神聖な権威を認め,これを口伝律法と呼びました。
以後1000年間に,口伝律法は発展し,膨大な集積となりました。口伝律法の研究と発展に携わった律法学者が,ラビという尊称で呼ばれたことから,この時代に形成されたユダヤ教を,特に〈ラビのユダヤ教〉と呼びます。長い間,口伝律法は口頭で伝承されていましたが,後200年ころ,総主教ユダ(イェフダ)によってミシュナに集成されました。その後さらに300年間,ミシュナの本文に基づく口伝律法の研究が積み重ねられた結果,4世紀末に〈エルサレム(別名パレスティナ)・タルムード〉,5世紀末に〈バビロニア・タルムード〉の編纂が完結しました。ミシュナとタルムードは,成文律法を中心として1世紀末に成立した旧約聖書とともに,ユダヤ教の聖典となりました。
〈ラビのユダヤ教〉時代は,ユダヤ民族が何度も絶滅の危機にさらされた激動の時代でした。まず,前4世紀末,アレクサンドロス大王の東征によって引き起こされたヘレニズム化の波が,政治的・文化的衝撃となってユダヤ人共同体の存立を根底から揺るがしました。特にセレウコス朝シリアの王アンティオコス4世は,ユダヤを征服すると,ユダヤ教を禁止してヘレニズム化政策を強行しました。信仰を守るため蜂起したユダヤ人は,マカベア党を中心とする反乱(マカベア戦争)を起こし,長い苦闘の末,マカベア(ハスモン)家によるユダヤの独立を回復しました。
しかし前63年には,ユダヤはローマの属領となり,ローマの属王ヘロデの支配を受けます。過酷なヘロデの支配に続いて,ローマ人総督が悪政の限りを尽くしたため,ついにユダヤ人は大反乱を起こしました(ユダヤ戦争。66-70年)。一時はローマ軍の排除に成功しましたが,結局反乱は鎮圧され,エルサレム神殿は完全に破壊されてしまいました。
このときまで,ユダヤ人は神殿祭儀を宗教活動の中心とみなしてきました。しかし,すでにバビロン捕囚時代から,神殿祭儀なしに民族的・宗教的共同体を維持する努力が払われてきていました。その結果,第2神殿時代を通じて,礼拝と律法研究のために,安息日(シャバット)ごとに各居住地の成員が集まるシナゴーグ(集会所)が発達していました。
パリサイ派律法学者たちは,シナゴーグを活動の本拠としていたため,神殿の破壊から本質的な打撃を被りませんでした。彼らは海岸地方のヤブネに集まり,それまで神殿にあったサンヘドリン(議会)を再興して,律法と律法解釈に基づくユダヤ人共同体の形成・維持を続行しました。第2反乱(132-135)によってヤブネが破壊されると,ユダヤ人共同体の中心はガリラヤに移り,5世紀初頭に,キリスト教を国教とするローマ帝国の弾圧によってユダヤ総主教職が廃止されるまで続きました。
ペルシア時代以来,多数のユダヤ人が,パレスティナ本国以外の世界各地に居住していました。彼らをディアスポラ(離散民)と呼びます。ディアスポラは,ヘレニズム・ローマ時代に大発展を遂げ,1世紀に,その人口は本国のユダヤ人の数十倍に達していました。大部分はローマ帝国内にいたが,再度にわたる反乱の際に,ディアスポラも厳しい弾圧を受けたため,ローマ帝国の支配圏外にあったバビロニアのディアスポラが徐々にユダヤ人世界の中心になっていきました。
特に5世紀以降は,バビロニア各地にあった教学院(イェシバーyeshivah)に集まった律法学者たちが,〈ラビのユダヤ教〉を完成する任務を遂行しました。その結果,ユダヤ民族・宗教共同体の歴史的軌跡であり,その生き方の基準である口伝律法の集大成として,〈バビロニア・タルムード〉が編纂されました。
中世以後,現代に至るユダヤ教は,〈ラビのユダヤ教〉が確立した教義の展開です。この間に,ユダヤ人世界の中心は,周辺世界の情勢に応じて世界各地を転々と移りました。10世紀まで,前時代の伝統を継承したバビロニアが中心であったが,それ以後ユダヤ人共同体は,イスラム教徒が支配する北アフリカとスペインで繁栄しました。当時,カライ派Karaitesと呼ばれるセクトが発生し,口伝律法の権威を否定して各自が成文律法(旧約聖書)を直接解釈するべきであると説きました。一時,大勢力になったが,結局,余りにも厳格な律法主義に陥り,広く民衆の支持をえることができなかったため急速に衰退しました。
ユダヤ人世界には,11世紀までに,スペインを中心とするイスラム教圏のスファラド系(セファルディム)と,ヨーロッパ・キリスト教圏のアシュケナーズ系(アシュケナジム)の二つの大きな文化的伝統が確立しました。10世紀以降,アシュケナーズ系ユダヤ学がライン川流域地方で盛んになり,西ヨーロッパ全域に大きな影響を及ぼしました。中世最大のユダヤ学者マイモニデスは,スファラド系哲学とアシュケナーズ系ユダヤ学を総合した人物です。
第1回十字軍(1096-99)とともに,キリスト教ヨーロッパは,血腥(なまぐさ)いユダヤ人迫害の歴史を開始しました。以後,西ヨーロッパ各地で迫害を受け,追放されたユダヤ人は大挙して東ヨーロッパに逃亡しました。その結果,中世以後20世紀前半まで,東ヨーロッパがアシュケナーズ系文化の中心となりました。
他方,キリスト教化したスペインから15世紀末に追放されたスファラド系ユダヤ人は,中東各地に移住しました。その一部が定着したパレスティナのツファットは,16世紀にカバラ神秘主義の中心となりました。カバラの起源は,ヘレニズム・ローマ時代のユダヤ人が著作した黙示文学です。これらの著作は,現在を悪が支配する世界とみなし,やがて到来する世の終りに,神が悪の力を滅ぼして正義を確立するという世界観と,神秘的表象を用いる点に特徴があります。現世における厳しい迫害に絶望した中世のユダヤ人が,終末時に来臨するメシアが民族と宇宙を救うという黙示思想に共感して,カバラ神秘主義を発展させてきました。しかし,終末の救済の秘儀にあずかるためには,律法を順守しなければならないというカバラの結論は,正統的な〈ラビのユダヤ教〉への回帰にほかなりませんでした。
カバラ神秘主義の影響下に,16~17世紀には,自称メシアが各地で出現しました。その一人,サバタイ・ツビのメシア運動は,一時全ユダヤ人世界を巻き込むほどの大成功を収めました。しかし,この偽メシアはトルコのスルタンに逮捕されると,イスラム教に改宗しました(1666)。サバタイ騒動が残した深刻な精神的危機を克服する試みの中から,東ヨーロッパでハシディズム運動が起こりました。ウクライナの貧民出身のバアル・シェムトーブBaal
Shem Tov(1698-1760)は法悦状態に没入し,祈禱において神と交わる神秘的救いの重要性を説いて,無味乾燥な律法主義にあきていたユダヤ人大衆の心をつかみました。しかし,正統派は,律法研究よりも法悦を重視するハシディズムを異端とみなし,〈ミトナグディームMitnaggedim〉(〈反対者〉の意)という運動を起こしました。半世紀に及ぶ激しい争いののち,19世紀初頭になると,両者は急速に和解しました。帝政ロシアの同化政策によるユダヤ人共同体の分解と,ハスカラーHaskalah(ユダヤ啓蒙主義)思想によるユダヤ教的伝統の破壊という,内外からの危機が迫ったからです。
17世紀後半に,西ヨーロッパにおいて,宗教的熱狂主義が終わり,中央集権的絶対主義と重商主義に基づく世俗的近代国家の形成が始まると,中世の宗教的伝統から個人の解放を目ざす啓蒙主義が,時代を支配する思潮となりました。その影響下に,ユダヤ人世界においては,ハスカラーと呼ばれる啓蒙主義運動が起こりました。
カントと並ぶ当代最大の哲学者として尊敬されたM.メンデルスゾーンを精神的父と仰ぐユダヤ人啓蒙主義者は,ユダヤ人固有の文化を捨ててヨーロッパの世俗文化を学ぶことが,中世以来の社会的差別からユダヤ人を解放する前提であると考えました。19世紀に,民族主義に基づく近代国家が成立すると,彼らは,ユダヤ教の伝統的教義である民族と宗教の間の不可分な関係を否定する〈改革派ユダヤ教〉を創設しました。
現在,ユダヤ人はいずれも概数で,イスラエルに360万,アメリカ合衆国に600万,旧ソ連に140万,ヨーロッパ諸国に130万,その他の地域を合わせて計1400万人います。イスラエルのユダヤ人人口の4倍に達するディアスポラは,各自が居住する国家のユダヤ教徒市民です。しかし,イスラエルは,1950年に帰還法を制定して,これらのディアスポラがイスラエル移住を希望すれば,ただちにイスラエル市民権を与えると約束します。これは,イスラエルをユダヤ人の〈祖国〉として建設したシオニズムの理念に基づく決定であるが,民族と宗教の関係は不可分であるという伝統的教義の確認でもある。この教義は,政教分離をたてまえとする現代国家イスラエルにとって,複雑な問題を提供しています。事実上,ユダヤ教の宗教法は,イスラエルの市民生活を規制しています。そこで,市民生活に宗教法を強制的に適用することに対しては,つねに多数の市民が反発しているが,ナチスの犠牲者600万人を〈殉教者〉として弔うことに異議を唱える市民は少ない。
他方,現在最大のユダヤ人共同体を形成するアメリカのユダヤ人は,共同体の内的崩壊により,アメリカ社会に同化吸収される危険を感じている。アメリカでは,〈ラビのユダヤ教〉の伝統的戒律を文字どおり順守する正統派のほかに,倫理的戒律と生活的戒律を区別して,後者は精神的解釈にとどめようとする改革派と,両派の中間的立場をとって,戒律の歴史的発展を主張する保守派の3派が均衡を保って並存している。しかし,シナゴーグの礼拝に参加するユダヤ人は,全人口の4分の1にとどまり,適齢期の男女の5人に1人は非ユダヤ人と結婚するため,アメリカのユダヤ人共同体の存続を問題視する説がある。これに対して,ソ連のユダヤ人共同体は,国家の強制的同化政策によって消滅の危機にさらされていた。しかし,そのためにかえってユダヤ人であることの意識を強くもち,反体制運動に参加する多数のユダヤ人がいた。アメリカのユダヤ人もソ連のユダヤ人も,アラブ諸国と戦争状態を続けるイスラエルの運命に深い関心を抱いており,そのことが,彼らのユダヤ人としての自意識を支えていることも事実である。ユダヤ教徒は民族なのか,信徒集団なのか,という問題は,簡単に割り切ることができない歴史的問題なのです。
<教義と戒律>
〈ラビのユダヤ教〉は613の戒律を定める。これらの義務律248戒と禁止律365戒は,狭義の宗教的戒律のほかに,倫理的戒律と生活的戒律を含み,民族共同体の生き方そのものが宗教であるユダヤ教の特徴を表している。ユダヤ教において,神の存在は自明な真理であって,その証明を必要としない。神は唯一であり,その統一された意志の下に,宇宙が創造され,イスラエルが選ばれ,歴史が運営されている。神はどのようなかたちも取らず宇宙を超越した存在であるが,同時に宇宙に遍在しているから,神に向かって祈る個人にも神は来臨し,滞留(シェキーナー)する。神は全知全能であり,聖にして完全な存在,永遠の生者である。彼は,憐れみによって世界と人間を創造し,正義によってこれを支配する。
人間は神のかたちに創造された存在であり,人生の目的は,現在なお進行中の神の創造の業に参加し,これを完成して創造主に栄光を帰すことである。したがって,人間は神のように恵み深く,憐れみに富み,正しく完全でなければならない。
しかし,人間の本性の中には悪の衝動が含まれているから,これを押さえて神の創造の業に参加することは,各人が自由意志に基づいて決定しなければならない。神の意志に反抗することが罪である。具体的には,十戒を代表とする律法に定められた戒律違反が罪であるが,特に重罪として,偶像礼拝,姦淫,殺人,中傷の4罪がある。いずれも,神のかたちに造られた人間の尊厳と,選民による共同体の形成にかかわっている。人間は罪を犯しやすい弱い存在であるが,憐れみ深い神は,悔い改めた罪人を必ず許す。しかし,正義の確立によって宇宙創造の完成を目ざす全能の神は,死後も各人の責任を追及する。
そこで,この世の終りに,神はメシアを派遣して神の王国の建設を準備させる。その後で来るべき世界が始まると,すべての死者はよみがえり,生前の行為に応じて最後の審判を受ける。その結果,罪人は永遠の滅びに落とされ,義人は永遠の生命を受ける。このような神の姿と人間の運命を示す律法が選民イスラエルに啓示されて以来,律法を順守して神の意志を全世界の諸民族に伝えることが,イスラエルの任務となった。〈シェマ・イスラエルShema‘
Israel(聞けイスラエル)〉は,唯一の神に対する中心的信仰告白である。〈聞けイスラエル,我らの神,主は唯一の主なり。汝,全心,全霊,全力を尽くして汝の神,主を愛すべし〉(《申命記》6:4)。ユダヤ教徒は,この告白を書きつけた羊皮紙を収めた革の小箱(テフィリンtefillin)を,一つは左上腕に,もう一つは額に巻きつけて朝禱を捧げる。朝,昼,晩と1日に3度〈アミダーamidah(立禱)〉を起立して祈る。これは,父祖の神の全能と聖名の賛美に始まり,神のシオン帰還とイスラエルの祝福で終わる19項目の祈禱であるが,本来は18項目であったことから,〈シュモネー・エスレーshemoneh-esreh〉(〈18の祝禱〉の意)と呼ばれる。立禱は個人で祈ってもよいが,正式には成人男子10人以上の集団(ミヌヤンminyan)で祈ることになっている。
安息日ごとに行われる公の礼拝の中心は,律法(〈モーセ五書〉)の朗読である。律法は,毎週1区分ずつ朗読して,1年間で読了するよう54区分されている。安息日は,金曜日の日没に始まり土曜日の日没に終わるが,神の恵みの業(わざ)を思い起こすため,すべての労働を休む神聖な日である。
ユダヤ暦は太陰暦で,太陽暦の9~10月に始まる秋年である。次のような祝祭日がある。新年祭(ティシュリ月1日)--神の世界創造を記念し最後の審判を思う。贖罪日(同10日)--断食をして罪の許しを乞う。仮庵の祭(同15~21日)--エジプト脱出後の荒野放浪の記念。律法の歓喜祭(同22日)--1年かかった律法の読了を祝う。ハヌカ祭(キスレウ月25日~テベト月2日)--前164年のエルサレム神殿奪回の記念。プリム祭(アダル月14~15日)--エステルがユダヤ人を救った伝承の記念。過越の祭(ニサン月15~21日)--エジプト脱出の記念。七週祭(シワン月6日)--モーセに十誡が授けられたことの記念。アブ月9日祭--エルサレム神殿の破壊を嘆く。
安息日と祝祭日の食事は,家庭で守らなければならない。したがって,家庭を形成するために結婚することは,重要な戒律として定められている。男子は生後8日目に割礼を受け,同時に命名される。これは,新生児が〈アブラハム契約〉に参加してユダヤ人共同体の一員になったことを示す儀式である。少年は13歳で〈バル・ミツバーbar
mitzvah〉(〈戒律の子〉の意)という成人式を行い,戒律を守る義務を負う。祭儀的な潔,不潔の区別が重んじられ,しばしば汚れを清めるために洗手,水浴などを行う。また,〈カシュルートkashrut(適正食品規定)〉に従って,不潔と定められた豚肉などの食用,肉とミルクの混食などが禁じられている。これらの規定は,聖別された選民の身分を守るための戒律である。
ユダヤ教の歴史は民族の歴史とともに古い。セム人に属する半遊牧的なユダヤ人の祖先が、民族移動の大きな波のなかでメソポタミアから地中海東岸沿いの地に定住するようになったのは、紀元前18世紀ごろのことと考古学では推定する。
『旧約聖書』の「創世記」12章以下のアブラハムの記事はこのような状況を反映している。
ユダヤ教にとって歴史上画期的なできごとは、モーセの指導により民族がエジプトから脱出し、シナイ山において神ヤーウェと契約を結んだことであった。
紀元前10世紀にエルサレム神殿を建立してからの民族の歴史は、亡国、離散、迫害、虐殺という悲劇的な歩みの連続であり、つねに民族のアイデンティティを求める闘いであった。紀元後70年にローマの手で破壊されたエルサレム神殿の喪失は、ユダヤ教にとってとりわけ決定的な意味をもった。なぜなら、神殿祭儀を中心としていたそれまでのあり方が根本的に変質を迫られることになったからである。
このような状況によく対処しえたのは、律法の厳格な遵守を目ざすパリサイ派の流れをくむ規範的ユダヤ教の努力の結果であった。彼らは、神殿祭儀にかえてシナゴーグでの祈りや日常的な律法研究を重視し、神のことばとしての律法のなかにユダヤ人としての行動の規範を追求した。成文律法のほかに口伝(くでん)の伝承をも認める立場が、危機的状況に対処しうる弾力性を与えたといえよう。この口伝律法はその後タルムードに集大成されてユダヤ教徒の生活と行動の規範となったものであり、現在にまで続くユダヤ教の性格を決定することとなった。
ユダヤ教がタルムード以後規範的宗教としての特質を強調すればするほど、この規範性によっては満たしえない人間の宗教的心情を重視する神秘主義的傾向も大きな流れとなって展開する。
これは、律法やタルムードの文字の背後に隠されている真理を霊的努力によって把握しようとする思想であり、中世スペインやパレスチナで盛んとなった。カバラとよばれるこのユダヤ教神秘主義思想は『ゾハール』(光輝の書)などに代表されている。この流れのなかから、近代に入って、祈りに精神を集中することによって神との神秘的交わりを得ることを願うハシディズムがポーランドにおこり、東欧ユダヤ人の心をとらえていった。
ユダヤ人は中世を通じて宗教的にも文化的にも、また社会的にも離散社会のなかで孤立した生活を続けてきた。しかし近代西ヨーロッパの啓蒙(けいもう)思潮は彼らのうえにも例外なく及び、人間性の解放として展開する。しかし彼らの場合、人間性の解放は同時に民族性の排除でもあった。この動きのなかからドイツで誕生した改革派は、シナゴーグ礼拝の近代化を推し進めたが、祈祷(きとう)書からシオンの再建とエルサレム神殿祭儀の復活を削除するなど、民族性排除の傾向をはっきりとうかがわせる。彼らは普遍性の高い預言者の倫理思想をとくに強調した。この改革派がもっとも自由に活躍しえたのは、伝統の束縛がないアメリカ合衆国においてであった。
伝統と現代性との間の緊張を問題としつつも、あまりに過激に走る改革派の動きについてゆけぬ人々の間から保守派ユダヤ教が生まれた。彼らは伝統的ユダヤ教の本質をたいせつに維持しながら、歴史に根拠のある改革を受け入れ、現代社会への適応性を高めようとした。このために。イエスが神によって託された使命は十字架上で死なれることでした。は、ユダヤ教の歩んできた道を歴史的に検証する必要があり、いわゆる「ユダヤ学」発展の契機となった。
19世紀の改革派、保守派の動きに同調しなかったヨーロッパのユダヤ人はすべて正統派とよばれる。正統派のうちでもごく一部の人々はいっさいの変革を拒否し、中世的伝統主義ユダヤ教を保守しようとする。彼らはテレビ、新聞をはじめ、現代文化を受け入れない。しかしその他の大部分は、いわゆる新正統派とよばれる人々で、現代社会の文化価値を受け入れる。これは、時代の流れへの譲歩ではなく、環境社会の文化を吸収し、かつその社会のことばでユダヤ教の価値と思想を表現するのは、過去の歴史に明らかなごとくユダヤ教本来の必然性である、と理解するからである。歴史批評的研究方法を彼らが受けつけないことはもちろんだが、日常行動の諸規定であるハラハーHalachaの解釈と基準の適用にはそれでも柔軟性が認められる。このように現代では正統派、保守派、改革派の三派が並存しているのが現状である。
ユダヤ教の聖典はヘブライ語の聖書である(内容的にはプロテスタント・キリスト教の『旧約聖書』と共通)。とくに冒頭の「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記(しんめいき)」のいわゆる「モーセ五書」はトーラー(律法)とよばれて神聖視されている。神がその意志をモーセに直接啓示した内容と信じられているからである。しかし後のユダヤ教の伝承によれば、シナイ山でモーセが受けた啓示の内容は、成文化されているトーラーだけではなく、口伝の律法をも含むと考えられた(ミシュナ・アボット1.1以下参照)。したがって成文律法(モーセ五書)と並んで口伝律法(ミシュナ)がともに神的権威をもつものと受けとめられてきた。このミシュナは200年ごろラビ・ユダによって結集され、その後パレスチナ、メソポタミア両地の律法学者がこれを基本テキストとして多様な議論を展開し、かつ注釈を加えていった。この議論および注釈をミシュナ本文とあわせて集大成したのがタルムードである。4世紀後半にパレスチナで完成したものはエルサレム(パレスチナ)・タルムードとよばれ、これとは別にメソポタミア地域の学者の成果を500年ごろ集成したのがバビロニア・タルムードとなった。
祖国を失い世界の各地に離散したユダヤ人がタルムードの示す宗教的行動規範に従うことによって、ユダヤ人としてのアイデンティティを保持することができたのである。「持ち運びのできる祖国」(C・ロス)と称されるゆえんである。したがってユダヤ教にとってタルムードは聖典に準じるものとしての位置づけをもっているといってよい。
<安息日と祭り>
1週間の生活でもっとも重要な「時」は安息日である。金曜の日没から土曜の夕までの1日である。この日ユダヤ人はいっさいの日常の仕事に従事することを禁じられている。神のみが存在するいっさいの創造者であり、主であることを認識するために、自然界と人間が営む世界への働きかけからユダヤ人は身を退けなければならない、とされる。
古代イスラエルにはエルサレム神殿に詣(もう)でる三大巡礼祭があった。仮庵(かりいお)祭(スッコート)、過越(すぎこし)祭(ペサッハ)、五旬節(シャブオート)である。いずれも収穫に関連した農耕的な祭りであったが、歴史のできごとと結び付けられて神殿喪失後現在に至るまで祝われ続けている。仮庵祭はエジプト脱出後の荒野での生活、過越祭はエジプト脱出時の奇跡的故事、五旬節はシナイ山におけるトーラーの啓示を記念する行事である。
ユダヤ人の暦では秋のティシュリの月に1年が始まる。月初めに新年祭(ローシュ・ハッシャナ)を祝い、その月の10日に贖罪(しょくざい)の日(ヨーム・キップール)を迎える。この日はユダヤ教におけるもっとも厳粛なときであり、悔い改めと神の赦(ゆる)しを求めてこの日一日完全に断食(だんじき)を守り、シナゴーグで祈りに終始する。罪を告白し、人間の至らなさを悔いるとともに神の無限の慈(いつく)しみをたたえ、心にしみ渡るコル・ニドレイの壮重な調べにのせて宗教的な誓いの束縛からユダヤ人が解放されることを願う。
このほかに12月に8日間のハヌカー祭がある。前2世紀中ごろセレウコス家(シリア)の支配をはねのけて、穢(けが)された神殿を潔(きよ)めて再奉献したことを祝う。また一説には、わずか一壺(つぼ)の穢れていない油が神殿再奉献の際8日間も灯明(とうみょう)として燃え続けた奇跡を記念するともいわれる。八枝の燭台(しょくだい)を窓辺でともす慣習がある。また春のアダルの月14日には、「エステル記」に語られるユダヤ人の救いを記念したプリムの祭りが祝われる。
新約聖書「マタイによる福音書」にはイエス・キリストの系図が出てくる。
1 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。
2 アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、 3 ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、
4 アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、 5 サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、
6 エッサイにダビデ王が生まれた。
ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、 7 ソロモンにレハベアムが生まれ、レハベアムにアビヤが生まれ、アビヤにアサが生まれ、 8 アサにヨサパテが生まれ、ヨサパテにヨラムが生まれ、ヨラムにウジヤが生まれ、
9 ウジヤにヨタムが生まれ、ヨタムにアハズが生まれ、アハズにヒゼキヤが生まれ、 10 ヒゼキヤにマナセが生まれ、マナセにアモンが生まれ、アモンにヨシヤが生まれ、
11 ヨシヤに、バビロン移住のころエコニヤとその兄弟たちが生まれた。
12 バビロン移住の後、エコニヤにサラテルが生まれ、サラテルにゾロバベルが生まれ、 13 ゾロバベルにアビウデが生まれ、アビウデにエリヤキムが生まれ、エリヤキムにアゾルが生まれ、
14 アゾルにサドクが生まれ、サドクにアキムが生まれ、アキムにエリウデが生まれ、 15 エリウデにエレアザルが生まれ、エレアザルにマタンが生まれ、マタンにヤコブが生まれ、
16 ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。
17 それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。
イエスキリストの血液に、ルツの血が入っていることが書かれている。ルツはルツ記に、二人の息子がモアブの女を妻に迎え、2人の一人がルツであったことが記されている。また信仰によって、ヨシュアの偵察隊を助けたラハブも出てくる。「遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。」ダビデ王には、異邦人の血が入っているのである。バビロン移住からキリストまでに、十四代とあり、人間イエス・キリストは、ユダヤ人であったことが分かる。
またカール・マルクスもユダヤ人である。カール・マルクスとは、「資本主義」と戦った社会思想家である。カール・マルクスは、資本主義社会で生まれ、育ち、資本主義が不完全な社会制度であることに気づき、この社会を変革しようと戦った人間である。マルクスは彼なりの「出エジプト」を試みたのである。
ユダヤ教を学ぼう
聖書を学ぼうとする方は、新約聖書から読み始め、イエスの降誕と幼少時代、バプテスマのヨハネの活動、イエスのバプテスマ、荒野でイエスになされた様々な誘惑、カナで行われた最初の奇跡、初期ユダヤ人伝道、ガリラヤ伝道、エルサレム訪問、ペレヤ伝道、後期ユダヤ伝道、最後の1週間、復活と宣教を、読み、主の十字架の場面では涙することでしょう。イエスは伝道をされましたが、伝道活動は弟子たちに託されていました。ご自分の働きの収穫を選ばれた12使徒に任されました。ご自分の働きの収穫を12使徒たちに託されたのです。。イエスが神によって託された使命は十字架上で死なれることでした。イエスは十字架上で死なれた後、ご自分の霊によって弟子たちを導きました。2年間の弟子に対する訓練の後、イエスは弟子たちを地の果てまでの証人として遣わされました。新約聖書には弟子たちの働きの一部分、パレスチナ、小アジア、ギリシャ、ローマと、ペテロ、ヨハネ、パウロの働きだけが記されています。おそらく、十二使徒たちは、異なった方向に向かうように協定したと思われます。または各自が最善と思う地に導かれたのかもしれません。彼らは期間を定めて、2人ずつ出かけました。そして他の人々の働きの場を訪れ、教会確立に尽力されました。紀元後62年ごろ、パウロは「この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられている」と言いました。(コロ1:23)キリストの物語は30年たたないうちに当時の全世界に伝えられたのです。伝承によれば、12使徒はほとんどキリストに対する証言を殉教によって証印しました。
イエスの教えの中心は、山上の説教に書かれています。マタイには、説教は山上で、ルカには山を下り平らなところでなされた、とあります。イエスの教えのなかでも、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」、「敵を愛しなさい」、「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい」などは、われわれには自分自身には実現不可能のように思えるかもしれません。しかし、イエスご自身はそのように生活されて、われわれがどのように誤った取り扱いを受けた場合でも、憤りの心を起こさないで、さらに加害者の幸福を実際に求め、われわれを憎む人々にも愛の心をむけるように明白に教えられました。
教会加入を許された最初の異邦人はローマ兵でした。(使10:1)兵役の放棄は要求されませんでした。裁判官、警察官、軍人などは、法律の維持に責任ある官吏として、正義の原則には厳格に従わなければならないが、個人としては極力、心においても生活においても、黄金律を実行することになるでしょう。
イエスは「枕するところもない」ほど、貧しかった。約3年間を旅行で過ごし、その間相当多くの者がイエスに従った。また少なくても2回、大きな伝道隊を組織されました。彼らは人々から、歓迎されることもありました(マタ10:11)。イエスは富裕な人々その他から献金を受けました。(ルカ8:3)イエスがそう思えば、多くの弟子や病人から一財産をこしらえ、王者のような生活ができました。しかし彼は貧しさのうちに生き、そして死んだ。
新約聖書の中心は、霊的な問題です。「コリント人への手紙」の解説書(G.C.モルガン博士著)の序言には次の言葉があります。「新約聖書の中で、『コリント人への手紙』ほど、現今の教会への適切なメッセージで満ちている手紙は、他にはほとんどないと言っても過言ではあるまい。『十字架の言』と『人の知恵』との争い、神の教会に起こる分裂、教役者への援助、復ア活の証拠、結婚、偶像礼拝、献物等の問題は、パウロがこの手紙を書いた初代教会時代と同様に、今日でも真面目に取り上げなければならない問題である。」とある。モルガン博士の、『コリント人への第一の手紙』冒頭でパウロがこの手紙の中で提出されている諸々の問題の答えにはすぐに取り掛からなかった。彼はまず、彼ら(コリント人)の状況の中で、気づいたいくつかの事実を扱った。次のとおりである。「さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。皆語ることを一つにし、お互いの間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結びあっていてほしい。私の兄弟たちよ。」かれ(パウロ)は手紙の第一部で、何を扱っていたか。彼は肉的なこと、この世の事柄、血肉の事柄、コリントの人々の中に入り込んできて彼らに対する証言と召命とをだめにしたような事柄を扱っていた。しかし、今度は(まるで「こうした事柄はもう御免こうむりたい、そして、もっと高い、もっと善い、建設的な事柄を扱いたい」と言うかのように)「霊的な事柄については…」と言う。これがこの手紙をはっきり区切る線である。手紙全体をこのように扱うことができる。第一は肉的な事柄を扱っていて是正的であり、第二部は霊的な事柄を扱っていて建設的である。この是正的な、肉的な事柄と、建設的な、霊的な事柄との間には、一つの著しい均衡が見いだされるのである。
これに対して、旧約聖書は、へブル民族を通じて全民族にメシアを来たらせるために神がこの民族を存立させられたことの物語です。物語ですから、話は具体的で、時系列です。また旧約聖書は、来るべきメシアへの賛歌でもあります。しかもこの賛歌は、低く、取留めなく、おぼろな調子で始まるが、時を経るにしたがってその調べは強さを増し、近づきつつある王を待つ、明瞭で、熱烈で、豊富で、歓喜にあふれる旋律となっていきます。その間に、神は摂理の手をもって、諸民族に備えさせられるのです。
旧約聖書は39巻あります。①歴史書17巻(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記(第一、第二)、列王記(第一、第二)、歴代誌(第一、第二)、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記からなり、②その他に詩書5巻(ヨブ記、詩篇、箴言、伝道者の書、雅歌からなる)、③預言書(17巻)(イザヤ書、エレミヤ書、哀歌、エゼキエル書、ダニエル書、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書からなる)から構成される大著です。各書には主題と思想がありますが、煩雑ですので書かないでおきます。
旧約聖書の最初の5書は、「律法」とか、「モーセの5書」とか呼ばれていますが、本来は一つの書として書かれたものですので、連続性と調和があります。その中でも、「出エジプト記」は始まりの書として、へブル民族と神が契約を結ぶ重要な書です。①モーセ自身が体験したこと、②神から受けた啓示、③それまでに残されていた様々な記録のまとめ、④イエスはモーセがこの書の著者であることを認めています。
「出エジプト記」の執筆目的を理解することは、極めて重要です。モーセは、カナンの地に入る直前のイスラエル人のためにこれを書きました。彼らは、出エジプト後に誕生した世代、つまり、イスラエルの歴史や出エジプトの歴史を知らない世代です。彼らに必要なのは、自らのアイデンテティの確立と、カナンの地で生きる目的をしっかりと把握することです。その目的とは、契約の民としていき、神に栄光を帰すことです。
出エジプト記の冒頭の1章から12章までは、エジプトで苦しむイスラエルの民のことが書かれています。エジプトは、人類史上最初の反ユダヤ主義の国になりました。つまり国策として反ユダヤ主義を採用したのです。エジプトのファラオたちは、①イスラエルの民に過酷な労働を課し、②男児殺害命令を出し、③嬰児をナイル川で溺死させよと命じました。モーセの両親は、信仰と知恵によって幼子をナイル川に浮かべ、その命を救いました。モーセは誕生から40歳までエジプトの王女に助けられ、王宮で帝王学を学びます。40歳から80歳までに彼は、王宮から出て逃亡者としての生活をします。ミディアンの荒野で羊飼いとしての経験を積み、80歳から120歳までに、神からの召命に応じ、解放者としてエジプトに立ち向かいます。モーセが歴史書に残された誰であるかは、現在までわかっていません。また出エジプト時代のパロ(王)は誰かについても、アメンホテプ2世(前1450‐1420)とする説とまたはメルネプタ(前1235―1220)とする説があります。出エジプトがメルネプタの時とすれば、イスラエル人の大圧迫者はラメセス2世で、その娘がモーセを育てたことになります。アメンホテプ2世、トトメス3世、またはラメセス2世か、メルネプタか、どちらかの時代にモーセはイスラエル人をエジプトから連れ出したと言えます。これら4人の王のミイラは全部発見されており、モーセ時代のパロの顔を今日われわれは見ることができます。
一方イスラエルの民には、全人類を祝福するという使命が与えられています。エジプトを脱出してカナンの地に入るのはその使命のためです。12章から18章には、エジプトを脱出してシナイ山に移動するイスラエルの民が書かれています。徒歩の壮年男子だけで約60万人が、エジプトを脱出しました。イスラエルの民がエジプトに滞在した年数は、430年間でした。カナンの地に達するのに、神は、最短コースではなく、葦の海に沿う荒野の道をたどるように導かれました。イスラエルの民は、葦の海を渡る奇跡を体験する必要がありました。
逃亡したイスラエル人を追って、海を渡ろうとしたエジプトの軍勢は、溺死しました。イスラエルの民は、大いなる解放が実現し、神のみ名をほめたたえました。イスラエル人奴隷たちをエジプト脱出に導いたのはモーセでしたが、このモーセという名はエジプト名です。モーセは、ヘブライの両親の子でしたので、その両親がつけた名前があるはずですが、なぜかエジプト名が使われています。
この解放劇によって、イスラエル国家が誕生しました。出エジプトの出来事は、イスラエル国家の始まりとなりました。19章から40勝までは、シナイ山で神と契約を結ぶイスラエルの民が書かれています。シナイ契約です。「『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せて、わたしのもとに連れてきたことを見た。今、もしあなたがたが確かに私の声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界は私のものであるから。あなたがたは私にとって祭祀の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである」(出エジプト19:4-6)
シナイ契約は条件付き契約であり、その契約条項がモーセの律法です。モーセの律法は、行いによる救いを教えたものではありません。いつの時代にも、救いは「信仰と恵みによって」与えられます。モーセの律法への従順は、当時の人々の信仰表現です。
イスラエルの民は、モーセによって肉体的出エジプトを経験しました。私たちは、キリストによって霊的出エジプトを経験します。出エジプトは、私たちの物語でもあります。パレスチナに到着したへブル民族が、ヨシュアの指導の下で、奪取のための闘いが繰り広げられます。パレスチナの王から、エジプトの王に救援を依頼する文書(アマルナ文書)が残されています。「ハビル(へブル)は我々の要塞を奪取している。彼らはわれわれの町を奪おうとしている。われらの統治者を滅ぼそうとしている。彼らは王(アメンホテプ2世)の全土を略奪している。王よ、速やかに軍隊をお送りになるように。もし軍隊が年内に来なければ、王は全国土を失われるでしょう。」王がメルネプタの可能性もあります。もしメルネプタとするなら、「イスラエル碑石」が残されており、この碑石は現在カイロ博物館にあります。碑文には「カナンは略奪された、イスラエルは荒廃した。その種はいなくなった。パレスチナはエジプトにとってやもめとなった。」と書かれてあります。
書かれたユダヤ教の成立
ユダヤ教について知ることはキリスト教を知り、理解する上で極めて重要です。ユダヤ教とは、旧約聖書に記された内容ですが、新約聖書は旧約聖書の土台の上に立っています。ユダヤ教は、唯一絶対の神を信仰するユダヤ人の民族宗教です。モーセの律法と神との契約に基づき、選民思想・終末論およびメシアの来臨を信ずることなどが特徴です。
旧約聖書には、39巻あり、内訳は歴史書17巻、詩書5巻、預言書17巻です。歴史書のうち、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の5巻は、モーセ5書とよばれ、本来は一つの書として書かれたものです。歴史書は、モーセ5書のほかに、ヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記(第一、第二)、列王記(第一、第二)、歴代誌(第一、第二)、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記があります。ユダヤ教の中心はトーラー(律法とも訳されます)で、狭い意味ではモーセ5書、の部分を言いますが、それを補足・解説するものとして預言書・諸書をも含み得ます。
「書かれたトーラー」の意味を特定の解釈原理によって解き明かしたしたものをミドラシュといいます。ミドラシュは各時代のユダヤの信仰を知るうえで重要です。すでに紀元前において、モーセ5書は、聖書中格別の位置を占めるものとものと信じられてきており、異なった社会的・文化的環境の中にあるユダヤ人は、トーラーの教えを現代化する必要がありました。トーラーは、テーマ別に配列・整理され2世紀から3世紀にかけてミシュナとよばれるものが成立します。トーラーとミシュナを併せたものを普通にはタルムードといいます。
ユダヤ教はバビロン捕囚から帰還後の前517年、エルサレム神殿の再建・祭祀(さいし)の確立をもって成立したとされます。キリスト教では、旧約聖書の続編を新約聖書としていますが、ユダヤ人は、旧約聖書の続編をミシュナ・タルムードといっています。
前13世紀末に,イスラエル人はパレスチナ(カナン)に侵入して〈約束の地〉に定着します。前10世紀(1000年)ころ,ユダ族出身のダビデが王となり,シリア・パレスティナ全域にまたがる大帝国を建設し,エルサレムを首都に定めます。その子ソロモンが,エルサレムのシオンの丘に主の神殿を建立すると,主はダビデ家をイスラエルの支配者として選び,シオンを主の名を置く唯一の場所に定める約束をした,と理解されました(〈ダビデ契約〉)。ここから,〈メシア〉(原義は〈即位に際して油を注がれた王〉)が,世の終りにダビデ家の子孫から現れるという期待と,エルサレム(シオン)を最も重要な聖地とする信仰が生じました。
前586年にユダ王国が滅亡し,エルサレム神殿が破壊されて古代イスラエル時代は終わります。その後約半世紀続いたバビロン捕囚の苦難を通して,古代イスラエルの宗教的遺産を民族存続の基本原理とする共同体〈ユダヤ人〉が成立しました。前538年にペルシアのキュロス2世が捕囚民の解放令を発布すると,一部のユダヤ人は故国に帰還して,エルサレム神殿を再建しました。これを第2神殿と呼びます。以後,後70年にローマ人が第2神殿を破壊するまで,ユダヤ人は,エルサレム神殿を中心とする民族的・宗教的共同体として自己形成をしました。
しかし,この共同体の独自の生き方を決定したのは,前5世紀中葉に,バビロニアから〈モーセの律法〉の巻物を携えて来たエズラでした。彼は律法を公衆の面前で朗読すると同時に解説しました。エズラは,この時代までに変更不可能な聖典として成立していた成文律法を,変化する現実に適用する方法を教えた最初の律法学者でした。エズラ以後,ユダヤ人は,成文律法の解釈のほかに,より広範囲な権威に基づいて決定された法規にも,成文律法と同等の神聖な権威を認め,これを口伝律法と呼びました。
以後1000年間に,口伝律法は発展し,膨大な集積となりました。口伝律法の研究と発展に携わった律法学者が,ラビという尊称で呼ばれたことから,この時代に形成されたユダヤ教を,特に〈ラビのユダヤ教〉と呼びます。長い間,口伝律法は口頭で伝承されていましたが,後200年ころ,総主教ユダ(イェフダ)によってミシュナに集成されました。その後さらに300年間,ミシュナの本文に基づく口伝律法の研究が積み重ねられた結果,4世紀末に〈エルサレム(別名パレスティナ)・タルムード〉,5世紀末に〈バビロニア・タルムード〉の編纂が完結しました。ミシュナとタルムードは,成文律法を中心として1世紀末に成立した旧約聖書とともに,ユダヤ教の聖典となりました。
〈ラビのユダヤ教〉時代は,ユダヤ民族が何度も絶滅の危機にさらされた激動の時代でした。まず,前4世紀末,アレクサンドロス大王の東征によって引き起こされたヘレニズム化の波が,政治的・文化的衝撃となってユダヤ人共同体の存立を根底から揺るがしました。特にセレウコス朝シリアの王アンティオコス4世は,ユダヤを征服すると,ユダヤ教を禁止してヘレニズム化政策を強行しました。信仰を守るため蜂起したユダヤ人は,マカベア党を中心とする反乱(マカベア戦争)を起こし,長い苦闘の末,マカベア(ハスモン)家によるユダヤの独立を回復しました。
しかし前63年には,ユダヤはローマの属領となり,ローマの属王ヘロデの支配を受けます。過酷なヘロデの支配に続いて,ローマ人総督が悪政の限りを尽くしたため,ついにユダヤ人は大反乱を起こしました(ユダヤ戦争。66-70年)。一時はローマ軍の排除に成功しましたが,結局反乱は鎮圧され,エルサレム神殿は完全に破壊されてしまいました。
このときまで,ユダヤ人は神殿祭儀を宗教活動の中心とみなしてきました。しかし,すでにバビロン捕囚時代から,神殿祭儀なしに民族的・宗教的共同体を維持する努力が払われてきていました。その結果,第2神殿時代を通じて,礼拝と律法研究のために,安息日(シャバット)ごとに各居住地の成員が集まるシナゴーグ(集会所)が発達していました。
パリサイ派律法学者たちは,シナゴーグを活動の本拠としていたため,神殿の破壊から本質的な打撃を被りませんでした。彼らは海岸地方のヤブネに集まり,それまで神殿にあったサンヘドリン(議会)を再興して,律法と律法解釈に基づくユダヤ人共同体の形成・維持を続行しました。第2反乱(132-135)によってヤブネが破壊されると,ユダヤ人共同体の中心はガリラヤに移り,5世紀初頭に,キリスト教を国教とするローマ帝国の弾圧によってユダヤ総主教職が廃止されるまで続きました。
ペルシア時代以来,多数のユダヤ人が,パレスティナ本国以外の世界各地に居住していました。彼らをディアスポラ(離散民)と呼びます。ディアスポラは,ヘレニズム・ローマ時代に大発展を遂げ,1世紀に,その人口は本国のユダヤ人の数十倍に達していました。大部分はローマ帝国内にいたが,再度にわたる反乱の際に,ディアスポラも厳しい弾圧を受けたため,ローマ帝国の支配圏外にあったバビロニアのディアスポラが徐々にユダヤ人世界の中心になっていきました。
特に5世紀以降は,バビロニア各地にあった教学院(イェシバーyeshivah)に集まった律法学者たちが,〈ラビのユダヤ教〉を完成する任務を遂行しました。その結果,ユダヤ民族・宗教共同体の歴史的軌跡であり,その生き方の基準である口伝律法の集大成として,〈バビロニア・タルムード〉が編纂されました。
中世以後,現代に至るユダヤ教は,〈ラビのユダヤ教〉が確立した教義の展開です。この間に,ユダヤ人世界の中心は,周辺世界の情勢に応じて世界各地を転々と移りました。10世紀まで,前時代の伝統を継承したバビロニアが中心であったが,それ以後ユダヤ人共同体は,イスラム教徒が支配する北アフリカとスペインで繁栄しました。当時,カライ派Karaitesと呼ばれるセクトが発生し,口伝律法の権威を否定して各自が成文律法(旧約聖書)を直接解釈するべきであると説きました。一時,大勢力になったが,結局,余りにも厳格な律法主義に陥り,広く民衆の支持をえることができなかったため急速に衰退しました。
ユダヤ人世界には,11世紀までに,スペインを中心とするイスラム教圏のスファラド系(セファルディム)と,ヨーロッパ・キリスト教圏のアシュケナーズ系(アシュケナジム)の二つの大きな文化的伝統が確立しました。10世紀以降,アシュケナーズ系ユダヤ学がライン川流域地方で盛んになり,西ヨーロッパ全域に大きな影響を及ぼしました。中世最大のユダヤ学者マイモニデスは,スファラド系哲学とアシュケナーズ系ユダヤ学を総合した人物です。
第1回十字軍(1096-99)とともに,キリスト教ヨーロッパは,血腥(なまぐさ)いユダヤ人迫害の歴史を開始しました。以後,西ヨーロッパ各地で迫害を受け,追放されたユダヤ人は大挙して東ヨーロッパに逃亡しました。その結果,中世以後20世紀前半まで,東ヨーロッパがアシュケナーズ系文化の中心となりました。
他方,キリスト教化したスペインから15世紀末に追放されたスファラド系ユダヤ人は,中東各地に移住しました。その一部が定着したパレスティナのツファットは,16世紀にカバラ神秘主義の中心となりました。カバラの起源は,ヘレニズム・ローマ時代のユダヤ人が著作した黙示文学です。これらの著作は,現在を悪が支配する世界とみなし,やがて到来する世の終りに,神が悪の力を滅ぼして正義を確立するという世界観と,神秘的表象を用いる点に特徴があります。現世における厳しい迫害に絶望した中世のユダヤ人が,終末時に来臨するメシアが民族と宇宙を救うという黙示思想に共感して,カバラ神秘主義を発展させてきました。しかし,終末の救済の秘儀にあずかるためには,律法を順守しなければならないというカバラの結論は,正統的な〈ラビのユダヤ教〉への回帰にほかなりませんでした。
カバラ神秘主義の影響下に,16~17世紀には,自称メシアが各地で出現しました。その一人,サバタイ・ツビのメシア運動は,一時全ユダヤ人世界を巻き込むほどの大成功を収めました。しかし,この偽メシアはトルコのスルタンに逮捕されると,イスラム教に改宗しました(1666)。サバタイ騒動が残した深刻な精神的危機を克服する試みの中から,東ヨーロッパでハシディズム運動が起こりました。ウクライナの貧民出身のバアル・シェムトーブBaal
Shem Tov(1698-1760)は法悦状態に没入し,祈禱において神と交わる神秘的救いの重要性を説いて,無味乾燥な律法主義にあきていたユダヤ人大衆の心をつかみました。しかし,正統派は,律法研究よりも法悦を重視するハシディズムを異端とみなし,〈ミトナグディームMitnaggedim〉(〈反対者〉の意)という運動を起こしました。半世紀に及ぶ激しい争いののち,19世紀初頭になると,両者は急速に和解しました。帝政ロシアの同化政策によるユダヤ人共同体の分解と,ハスカラーHaskalah(ユダヤ啓蒙主義)思想によるユダヤ教的伝統の破壊という,内外からの危機が迫ったからです。
17世紀後半に,西ヨーロッパにおいて,宗教的熱狂主義が終わり,中央集権的絶対主義と重商主義に基づく世俗的近代国家の形成が始まると,中世の宗教的伝統から個人の解放を目ざす啓蒙主義が,時代を支配する思潮となりました。その影響下に,ユダヤ人世界においては,ハスカラーと呼ばれる啓蒙主義運動が起こりました。
カントと並ぶ当代最大の哲学者として尊敬されたM.メンデルスゾーンを精神的父と仰ぐユダヤ人啓蒙主義者は,ユダヤ人固有の文化を捨ててヨーロッパの世俗文化を学ぶことが,中世以来の社会的差別からユダヤ人を解放する前提であると考えました。19世紀に,民族主義に基づく近代国家が成立すると,彼らは,ユダヤ教の伝統的教義である民族と宗教の間の不可分な関係を否定する〈改革派ユダヤ教〉を創設しました。
現在,ユダヤ人はいずれも概数で,イスラエルに360万,アメリカ合衆国に600万,旧ソ連に140万,ヨーロッパ諸国に130万,その他の地域を合わせて計1400万人います。イスラエルのユダヤ人人口の4倍に達するディアスポラは,各自が居住する国家のユダヤ教徒市民です。しかし,イスラエルは,1950年に帰還法を制定して,これらのディアスポラがイスラエル移住を希望すれば,ただちにイスラエル市民権を与えると約束します。これは,イスラエルをユダヤ人の〈祖国〉として建設したシオニズムの理念に基づく決定であるが,民族と宗教の関係は不可分であるという伝統的教義の確認でもある。この教義は,政教分離をたてまえとする現代国家イスラエルにとって,複雑な問題を提供しています。事実上,ユダヤ教の宗教法は,イスラエルの市民生活を規制しています。そこで,市民生活に宗教法を強制的に適用することに対しては,つねに多数の市民が反発しているが,ナチスの犠牲者600万人を〈殉教者〉として弔うことに異議を唱える市民は少ない。
他方,現在最大のユダヤ人共同体を形成するアメリカのユダヤ人は,共同体の内的崩壊により,アメリカ社会に同化吸収される危険を感じている。アメリカでは,〈ラビのユダヤ教〉の伝統的戒律を文字どおり順守する正統派のほかに,倫理的戒律と生活的戒律を区別して,後者は精神的解釈にとどめようとする改革派と,両派の中間的立場をとって,戒律の歴史的発展を主張する保守派の3派が均衡を保って並存している。しかし,シナゴーグの礼拝に参加するユダヤ人は,全人口の4分の1にとどまり,適齢期の男女の5人に1人は非ユダヤ人と結婚するため,アメリカのユダヤ人共同体の存続を問題視する説がある。これに対して,ソ連のユダヤ人共同体は,国家の強制的同化政策によって消滅の危機にさらされていた。しかし,そのためにかえってユダヤ人であることの意識を強くもち,反体制運動に参加する多数のユダヤ人がいた。アメリカのユダヤ人もソ連のユダヤ人も,アラブ諸国と戦争状態を続けるイスラエルの運命に深い関心を抱いており,そのことが,彼らのユダヤ人としての自意識を支えていることも事実である。ユダヤ教徒は民族なのか,信徒集団なのか,という問題は,簡単に割り切ることができない歴史的問題なのです。
<教義と戒律>
〈ラビのユダヤ教〉は613の戒律を定める。これらの義務律248戒と禁止律365戒は,狭義の宗教的戒律のほかに,倫理的戒律と生活的戒律を含み,民族共同体の生き方そのものが宗教であるユダヤ教の特徴を表している。ユダヤ教において,神の存在は自明な真理であって,その証明を必要としない。神は唯一であり,その統一された意志の下に,宇宙が創造され,イスラエルが選ばれ,歴史が運営されている。神はどのようなかたちも取らず宇宙を超越した存在であるが,同時に宇宙に遍在しているから,神に向かって祈る個人にも神は来臨し,滞留(シェキーナー)する。神は全知全能であり,聖にして完全な存在,永遠の生者である。彼は,憐れみによって世界と人間を創造し,正義によってこれを支配する。
人間は神のかたちに創造された存在であり,人生の目的は,現在なお進行中の神の創造の業に参加し,これを完成して創造主に栄光を帰すことである。したがって,人間は神のように恵み深く,憐れみに富み,正しく完全でなければならない。
しかし,人間の本性の中には悪の衝動が含まれているから,これを押さえて神の創造の業に参加することは,各人が自由意志に基づいて決定しなければならない。神の意志に反抗することが罪である。具体的には,十戒を代表とする律法に定められた戒律違反が罪であるが,特に重罪として,偶像礼拝,姦淫,殺人,中傷の4罪がある。いずれも,神のかたちに造られた人間の尊厳と,選民による共同体の形成にかかわっている。人間は罪を犯しやすい弱い存在であるが,憐れみ深い神は,悔い改めた罪人を必ず許す。しかし,正義の確立によって宇宙創造の完成を目ざす全能の神は,死後も各人の責任を追及する。
そこで,この世の終りに,神はメシアを派遣して神の王国の建設を準備させる。その後で来るべき世界が始まると,すべての死者はよみがえり,生前の行為に応じて最後の審判を受ける。その結果,罪人は永遠の滅びに落とされ,義人は永遠の生命を受ける。このような神の姿と人間の運命を示す律法が選民イスラエルに啓示されて以来,律法を順守して神の意志を全世界の諸民族に伝えることが,イスラエルの任務となった。〈シェマ・イスラエルShema‘
Israel(聞けイスラエル)〉は,唯一の神に対する中心的信仰告白である。〈聞けイスラエル,我らの神,主は唯一の主なり。汝,全心,全霊,全力を尽くして汝の神,主を愛すべし〉(《申命記》6:4)。ユダヤ教徒は,この告白を書きつけた羊皮紙を収めた革の小箱(テフィリンtefillin)を,一つは左上腕に,もう一つは額に巻きつけて朝禱を捧げる。朝,昼,晩と1日に3度〈アミダーamidah(立禱)〉を起立して祈る。これは,父祖の神の全能と聖名の賛美に始まり,神のシオン帰還とイスラエルの祝福で終わる19項目の祈禱であるが,本来は18項目であったことから,〈シュモネー・エスレーshemoneh-esreh〉(〈18の祝禱〉の意)と呼ばれる。立禱は個人で祈ってもよいが,正式には成人男子10人以上の集団(ミヌヤンminyan)で祈ることになっている。
安息日ごとに行われる公の礼拝の中心は,律法(〈モーセ五書〉)の朗読である。律法は,毎週1区分ずつ朗読して,1年間で読了するよう54区分されている。安息日は,金曜日の日没に始まり土曜日の日没に終わるが,神の恵みの業(わざ)を思い起こすため,すべての労働を休む神聖な日である。
ユダヤ暦は太陰暦で,太陽暦の9~10月に始まる秋年である。次のような祝祭日がある。新年祭(ティシュリ月1日)--神の世界創造を記念し最後の審判を思う。贖罪日(同10日)--断食をして罪の許しを乞う。仮庵の祭(同15~21日)--エジプト脱出後の荒野放浪の記念。律法の歓喜祭(同22日)--1年かかった律法の読了を祝う。ハヌカ祭(キスレウ月25日~テベト月2日)--前164年のエルサレム神殿奪回の記念。プリム祭(アダル月14~15日)--エステルがユダヤ人を救った伝承の記念。過越の祭(ニサン月15~21日)--エジプト脱出の記念。七週祭(シワン月6日)--モーセに十誡が授けられたことの記念。アブ月9日祭--エルサレム神殿の破壊を嘆く。
安息日と祝祭日の食事は,家庭で守らなければならない。したがって,家庭を形成するために結婚することは,重要な戒律として定められている。男子は生後8日目に割礼を受け,同時に命名される。これは,新生児が〈アブラハム契約〉に参加してユダヤ人共同体の一員になったことを示す儀式である。少年は13歳で〈バル・ミツバーbar
mitzvah〉(〈戒律の子〉の意)という成人式を行い,戒律を守る義務を負う。祭儀的な潔,不潔の区別が重んじられ,しばしば汚れを清めるために洗手,水浴などを行う。また,〈カシュルートkashrut(適正食品規定)〉に従って,不潔と定められた豚肉などの食用,肉とミルクの混食などが禁じられている。これらの規定は,聖別された選民の身分を守るための戒律である。
ユダヤ教の歴史は民族の歴史とともに古い。セム人に属する半遊牧的なユダヤ人の祖先が、民族移動の大きな波のなかでメソポタミアから地中海東岸沿いの地に定住するようになったのは、紀元前18世紀ごろのことと考古学では推定する。
『旧約聖書』の「創世記」12章以下のアブラハムの記事はこのような状況を反映している。
ユダヤ教にとって歴史上画期的なできごとは、モーセの指導により民族がエジプトから脱出し、シナイ山において神ヤーウェと契約を結んだことであった。
紀元前10世紀にエルサレム神殿を建立してからの民族の歴史は、亡国、離散、迫害、虐殺という悲劇的な歩みの連続であり、つねに民族のアイデンティティを求める闘いであった。紀元後70年にローマの手で破壊されたエルサレム神殿の喪失は、ユダヤ教にとってとりわけ決定的な意味をもった。なぜなら、神殿祭儀を中心としていたそれまでのあり方が根本的に変質を迫られることになったからである。
このような状況によく対処しえたのは、律法の厳格な遵守を目ざすパリサイ派の流れをくむ規範的ユダヤ教の努力の結果であった。彼らは、神殿祭儀にかえてシナゴーグでの祈りや日常的な律法研究を重視し、神のことばとしての律法のなかにユダヤ人としての行動の規範を追求した。成文律法のほかに口伝(くでん)の伝承をも認める立場が、危機的状況に対処しうる弾力性を与えたといえよう。この口伝律法はその後タルムードに集大成されてユダヤ教徒の生活と行動の規範となったものであり、現在にまで続くユダヤ教の性格を決定することとなった。
ユダヤ教がタルムード以後規範的宗教としての特質を強調すればするほど、この規範性によっては満たしえない人間の宗教的心情を重視する神秘主義的傾向も大きな流れとなって展開する。
これは、律法やタルムードの文字の背後に隠されている真理を霊的努力によって把握しようとする思想であり、中世スペインやパレスチナで盛んとなった。カバラとよばれるこのユダヤ教神秘主義思想は『ゾハール』(光輝の書)などに代表されている。この流れのなかから、近代に入って、祈りに精神を集中することによって神との神秘的交わりを得ることを願うハシディズムがポーランドにおこり、東欧ユダヤ人の心をとらえていった。
ユダヤ人は中世を通じて宗教的にも文化的にも、また社会的にも離散社会のなかで孤立した生活を続けてきた。しかし近代西ヨーロッパの啓蒙(けいもう)思潮は彼らのうえにも例外なく及び、人間性の解放として展開する。しかし彼らの場合、人間性の解放は同時に民族性の排除でもあった。この動きのなかからドイツで誕生した改革派は、シナゴーグ礼拝の近代化を推し進めたが、祈祷(きとう)書からシオンの再建とエルサレム神殿祭儀の復活を削除するなど、民族性排除の傾向をはっきりとうかがわせる。彼らは普遍性の高い預言者の倫理思想をとくに強調した。この改革派がもっとも自由に活躍しえたのは、伝統の束縛がないアメリカ合衆国においてであった。
伝統と現代性との間の緊張を問題としつつも、あまりに過激に走る改革派の動きについてゆけぬ人々の間から保守派ユダヤ教が生まれた。彼らは伝統的ユダヤ教の本質をたいせつに維持しながら、歴史に根拠のある改革を受け入れ、現代社会への適応性を高めようとした。このために。イエスが神によって託された使命は十字架上で死なれることでした。は、ユダヤ教の歩んできた道を歴史的に検証する必要があり、いわゆる「ユダヤ学」発展の契機となった。
19世紀の改革派、保守派の動きに同調しなかったヨーロッパのユダヤ人はすべて正統派とよばれる。正統派のうちでもごく一部の人々はいっさいの変革を拒否し、中世的伝統主義ユダヤ教を保守しようとする。彼らはテレビ、新聞をはじめ、現代文化を受け入れない。しかしその他の大部分は、いわゆる新正統派とよばれる人々で、現代社会の文化価値を受け入れる。これは、時代の流れへの譲歩ではなく、環境社会の文化を吸収し、かつその社会のことばでユダヤ教の価値と思想を表現するのは、過去の歴史に明らかなごとくユダヤ教本来の必然性である、と理解するからである。歴史批評的研究方法を彼らが受けつけないことはもちろんだが、日常行動の諸規定であるハラハーHalachaの解釈と基準の適用にはそれでも柔軟性が認められる。このように現代では正統派、保守派、改革派の三派が並存しているのが現状である。
ユダヤ教の聖典はヘブライ語の聖書である(内容的にはプロテスタント・キリスト教の『旧約聖書』と共通)。とくに冒頭の「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記(しんめいき)」のいわゆる「モーセ五書」はトーラー(律法)とよばれて神聖視されている。神がその意志をモーセに直接啓示した内容と信じられているからである。しかし後のユダヤ教の伝承によれば、シナイ山でモーセが受けた啓示の内容は、成文化されているトーラーだけではなく、口伝の律法をも含むと考えられた(ミシュナ・アボット1.1以下参照)。したがって成文律法(モーセ五書)と並んで口伝律法(ミシュナ)がともに神的権威をもつものと受けとめられてきた。このミシュナは200年ごろラビ・ユダによって結集され、その後パレスチナ、メソポタミア両地の律法学者がこれを基本テキストとして多様な議論を展開し、かつ注釈を加えていった。この議論および注釈をミシュナ本文とあわせて集大成したのがタルムードである。4世紀後半にパレスチナで完成したものはエルサレム(パレスチナ)・タルムードとよばれ、これとは別にメソポタミア地域の学者の成果を500年ごろ集成したのがバビロニア・タルムードとなった。
祖国を失い世界の各地に離散したユダヤ人がタルムードの示す宗教的行動規範に従うことによって、ユダヤ人としてのアイデンティティを保持することができたのである。「持ち運びのできる祖国」(C・ロス)と称されるゆえんである。したがってユダヤ教にとってタルムードは聖典に準じるものとしての位置づけをもっているといってよい。
<安息日と祭り>
1週間の生活でもっとも重要な「時」は安息日である。金曜の日没から土曜の夕までの1日である。この日ユダヤ人はいっさいの日常の仕事に従事することを禁じられている。神のみが存在するいっさいの創造者であり、主であることを認識するために、自然界と人間が営む世界への働きかけからユダヤ人は身を退けなければならない、とされる。
古代イスラエルにはエルサレム神殿に詣(もう)でる三大巡礼祭があった。仮庵(かりいお)祭(スッコート)、過越(すぎこし)祭(ペサッハ)、五旬節(シャブオート)である。いずれも収穫に関連した農耕的な祭りであったが、歴史のできごとと結び付けられて神殿喪失後現在に至るまで祝われ続けている。仮庵祭はエジプト脱出後の荒野での生活、過越祭はエジプト脱出時の奇跡的故事、五旬節はシナイ山におけるトーラーの啓示を記念する行事である。
ユダヤ人の暦では秋のティシュリの月に1年が始まる。月初めに新年祭(ローシュ・ハッシャナ)を祝い、その月の10日に贖罪(しょくざい)の日(ヨーム・キップール)を迎える。この日はユダヤ教におけるもっとも厳粛なときであり、悔い改めと神の赦(ゆる)しを求めてこの日一日完全に断食(だんじき)を守り、シナゴーグで祈りに終始する。罪を告白し、人間の至らなさを悔いるとともに神の無限の慈(いつく)しみをたたえ、心にしみ渡るコル・ニドレイの壮重な調べにのせて宗教的な誓いの束縛からユダヤ人が解放されることを願う。
このほかに12月に8日間のハヌカー祭がある。前2世紀中ごろセレウコス家(シリア)の支配をはねのけて、穢(けが)された神殿を潔(きよ)めて再奉献したことを祝う。また一説には、わずか一壺(つぼ)の穢れていない油が神殿再奉献の際8日間も灯明(とうみょう)として燃え続けた奇跡を記念するともいわれる。八枝の燭台(しょくだい)を窓辺でともす慣習がある。また春のアダルの月14日には、「エステル記」に語られるユダヤ人の救いを記念したプリムの祭りが祝われる。
新約聖書「マタイによる福音書」にはイエス・キリストの系図が出てくる。
1 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。
2 アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、 3 ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、
4 アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、 5 サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、
6 エッサイにダビデ王が生まれた。
ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、 7 ソロモンにレハベアムが生まれ、レハベアムにアビヤが生まれ、アビヤにアサが生まれ、 8 アサにヨサパテが生まれ、ヨサパテにヨラムが生まれ、ヨラムにウジヤが生まれ、
9 ウジヤにヨタムが生まれ、ヨタムにアハズが生まれ、アハズにヒゼキヤが生まれ、 10 ヒゼキヤにマナセが生まれ、マナセにアモンが生まれ、アモンにヨシヤが生まれ、
11 ヨシヤに、バビロン移住のころエコニヤとその兄弟たちが生まれた。
12 バビロン移住の後、エコニヤにサラテルが生まれ、サラテルにゾロバベルが生まれ、 13 ゾロバベルにアビウデが生まれ、アビウデにエリヤキムが生まれ、エリヤキムにアゾルが生まれ、
14 アゾルにサドクが生まれ、サドクにアキムが生まれ、アキムにエリウデが生まれ、 15 エリウデにエレアザルが生まれ、エレアザルにマタンが生まれ、マタンにヤコブが生まれ、
16 ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。
17 それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。
イエスキリストの血液に、ルツの血が入っていることが書かれている。ルツはルツ記に、二人の息子がモアブの女を妻に迎え、2人の一人がルツであったことが記されている。また信仰によって、ヨシュアの偵察隊を助けたラハブも出てくる。「遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。」ダビデ王には、異邦人の血が入っているのである。バビロン移住からキリストまでに、十四代とあり、人間イエス・キリストは、ユダヤ人であったことが分かる。
またカール・マルクスもユダヤ人である。カール・マルクスとは、「資本主義」と戦った社会思想家である。カール・マルクスは、資本主義社会で生まれ、育ち、資本主義が不完全な社会制度であることに気づき、この社会を変革しようと戦った人間である。マルクスは彼なりの「出エジプト」を試みたのである。
ユダヤ教を学ぼう
聖書を学ぼうとする方は、新約聖書から読み始め、イエスの降誕と幼少時代、バプテスマのヨハネの活動、イエスのバプテスマ、荒野でイエスになされた様々な誘惑、カナで行われた最初の奇跡、初期ユダヤ人伝道、ガリラヤ伝道、エルサレム訪問、ペレヤ伝道、後期ユダヤ伝道、最後の1週間、復活と宣教を、読み、主の十字架の場面では涙することでしょう。イエスは伝道をされましたが、伝道活動は弟子たちに託されていました。ご自分の働きの収穫を選ばれた12使徒に任されました。ご自分の働きの収穫を12使徒たちに託されたのです。。イエスが神によって託された使命は十字架上で死なれることでした。イエスは十字架上で死なれた後、ご自分の霊によって弟子たちを導きました。2年間の弟子に対する訓練の後、イエスは弟子たちを地の果てまでの証人として遣わされました。新約聖書には弟子たちの働きの一部分、パレスチナ、小アジア、ギリシャ、ローマと、ペテロ、ヨハネ、パウロの働きだけが記されています。おそらく、十二使徒たちは、異なった方向に向かうように協定したと思われます。または各自が最善と思う地に導かれたのかもしれません。彼らは期間を定めて、2人ずつ出かけました。そして他の人々の働きの場を訪れ、教会確立に尽力されました。紀元後62年ごろ、パウロは「この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられている」と言いました。(コロ1:23)キリストの物語は30年たたないうちに当時の全世界に伝えられたのです。伝承によれば、12使徒はほとんどキリストに対する証言を殉教によって証印しました。
イエスの教えの中心は、山上の説教に書かれています。マタイには、説教は山上で、ルカには山を下り平らなところでなされた、とあります。イエスの教えのなかでも、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」、「敵を愛しなさい」、「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい」などは、われわれには自分自身には実現不可能のように思えるかもしれません。しかし、イエスご自身はそのように生活されて、われわれがどのように誤った取り扱いを受けた場合でも、憤りの心を起こさないで、さらに加害者の幸福を実際に求め、われわれを憎む人々にも愛の心をむけるように明白に教えられました。
教会加入を許された最初の異邦人はローマ兵でした。(使10:1)兵役の放棄は要求されませんでした。裁判官、警察官、軍人などは、法律の維持に責任ある官吏として、正義の原則には厳格に従わなければならないが、個人としては極力、心においても生活においても、黄金律を実行することになるでしょう。
イエスは「枕するところもない」ほど、貧しかった。約3年間を旅行で過ごし、その間相当多くの者がイエスに従った。また少なくても2回、大きな伝道隊を組織されました。彼らは人々から、歓迎されることもありました(マタ10:11)。イエスは富裕な人々その他から献金を受けました。(ルカ8:3)イエスがそう思えば、多くの弟子や病人から一財産をこしらえ、王者のような生活ができました。しかし彼は貧しさのうちに生き、そして死んだ。
新約聖書の中心は、霊的な問題です。「コリント人への手紙」の解説書(G.C.モルガン博士著)の序言には次の言葉があります。「新約聖書の中で、『コリント人への手紙』ほど、現今の教会への適切なメッセージで満ちている手紙は、他にはほとんどないと言っても過言ではあるまい。『十字架の言』と『人の知恵』との争い、神の教会に起こる分裂、教役者への援助、復ア活の証拠、結婚、偶像礼拝、献物等の問題は、パウロがこの手紙を書いた初代教会時代と同様に、今日でも真面目に取り上げなければならない問題である。」とある。モルガン博士の、『コリント人への第一の手紙』冒頭でパウロがこの手紙の中で提出されている諸々の問題の答えにはすぐに取り掛からなかった。彼はまず、彼ら(コリント人)の状況の中で、気づいたいくつかの事実を扱った。次のとおりである。「さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。皆語ることを一つにし、お互いの間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結びあっていてほしい。私の兄弟たちよ。」かれ(パウロ)は手紙の第一部で、何を扱っていたか。彼は肉的なこと、この世の事柄、血肉の事柄、コリントの人々の中に入り込んできて彼らに対する証言と召命とをだめにしたような事柄を扱っていた。しかし、今度は(まるで「こうした事柄はもう御免こうむりたい、そして、もっと高い、もっと善い、建設的な事柄を扱いたい」と言うかのように)「霊的な事柄については…」と言う。これがこの手紙をはっきり区切る線である。手紙全体をこのように扱うことができる。第一は肉的な事柄を扱っていて是正的であり、第二部は霊的な事柄を扱っていて建設的である。この是正的な、肉的な事柄と、建設的な、霊的な事柄との間には、一つの著しい均衡が見いだされるのである。
これに対して、旧約聖書は、へブル民族を通じて全民族にメシアを来たらせるために神がこの民族を存立させられたことの物語です。物語ですから、話は具体的で、時系列です。また旧約聖書は、来るべきメシアへの賛歌でもあります。しかもこの賛歌は、低く、取留めなく、おぼろな調子で始まるが、時を経るにしたがってその調べは強さを増し、近づきつつある王を待つ、明瞭で、熱烈で、豊富で、歓喜にあふれる旋律となっていきます。その間に、神は摂理の手をもって、諸民族に備えさせられるのです。
旧約聖書は39巻あります。①歴史書17巻(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記(第一、第二)、列王記(第一、第二)、歴代誌(第一、第二)、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記からなり、②その他に詩書5巻(ヨブ記、詩篇、箴言、伝道者の書、雅歌からなる)、③預言書(17巻)(イザヤ書、エレミヤ書、哀歌、エゼキエル書、ダニエル書、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書からなる)から構成される大著です。各書には主題と思想がありますが、煩雑ですので書かないでおきます。
旧約聖書の最初の5書は、「律法」とか、「モーセの5書」とか呼ばれていますが、本来は一つの書として書かれたものですので、連続性と調和があります。その中でも、「出エジプト記」は始まりの書として、へブル民族と神が契約を結ぶ重要な書です。①モーセ自身が体験したこと、②神から受けた啓示、③それまでに残されていた様々な記録のまとめ、④イエスはモーセがこの書の著者であることを認めています。
「出エジプト記」の執筆目的を理解することは、極めて重要です。モーセは、カナンの地に入る直前のイスラエル人のためにこれを書きました。彼らは、出エジプト後に誕生した世代、つまり、イスラエルの歴史や出エジプトの歴史を知らない世代です。彼らに必要なのは、自らのアイデンテティの確立と、カナンの地で生きる目的をしっかりと把握することです。その目的とは、契約の民としていき、神に栄光を帰すことです。
出エジプト記の冒頭の1章から12章までは、エジプトで苦しむイスラエルの民のことが書かれています。エジプトは、人類史上最初の反ユダヤ主義の国になりました。つまり国策として反ユダヤ主義を採用したのです。エジプトのファラオたちは、①イスラエルの民に過酷な労働を課し、②男児殺害命令を出し、③嬰児をナイル川で溺死させよと命じました。モーセの両親は、信仰と知恵によって幼子をナイル川に浮かべ、その命を救いました。モーセは誕生から40歳までエジプトの王女に助けられ、王宮で帝王学を学びます。40歳から80歳までに彼は、王宮から出て逃亡者としての生活をします。ミディアンの荒野で羊飼いとしての経験を積み、80歳から120歳までに、神からの召命に応じ、解放者としてエジプトに立ち向かいます。モーセが歴史書に残された誰であるかは、現在までわかっていません。また出エジプト時代のパロ(王)は誰かについても、アメンホテプ2世(前1450‐1420)とする説とまたはメルネプタ(前1235―1220)とする説があります。出エジプトがメルネプタの時とすれば、イスラエル人の大圧迫者はラメセス2世で、その娘がモーセを育てたことになります。アメンホテプ2世、トトメス3世、またはラメセス2世か、メルネプタか、どちらかの時代にモーセはイスラエル人をエジプトから連れ出したと言えます。これら4人の王のミイラは全部発見されており、モーセ時代のパロの顔を今日われわれは見ることができます。
一方イスラエルの民には、全人類を祝福するという使命が与えられています。エジプトを脱出してカナンの地に入るのはその使命のためです。12章から18章には、エジプトを脱出してシナイ山に移動するイスラエルの民が書かれています。徒歩の壮年男子だけで約60万人が、エジプトを脱出しました。イスラエルの民がエジプトに滞在した年数は、430年間でした。カナンの地に達するのに、神は、最短コースではなく、葦の海に沿う荒野の道をたどるように導かれました。イスラエルの民は、葦の海を渡る奇跡を体験する必要がありました。
逃亡したイスラエル人を追って、海を渡ろうとしたエジプトの軍勢は、溺死しました。イスラエルの民は、大いなる解放が実現し、神のみ名をほめたたえました。イスラエル人奴隷たちをエジプト脱出に導いたのはモーセでしたが、このモーセという名はエジプト名です。モーセは、ヘブライの両親の子でしたので、その両親がつけた名前があるはずですが、なぜかエジプト名が使われています。
この解放劇によって、イスラエル国家が誕生しました。出エジプトの出来事は、イスラエル国家の始まりとなりました。19章から40勝までは、シナイ山で神と契約を結ぶイスラエルの民が書かれています。シナイ契約です。「『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せて、わたしのもとに連れてきたことを見た。今、もしあなたがたが確かに私の声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界は私のものであるから。あなたがたは私にとって祭祀の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである」(出エジプト19:4-6)
シナイ契約は条件付き契約であり、その契約条項がモーセの律法です。モーセの律法は、行いによる救いを教えたものではありません。いつの時代にも、救いは「信仰と恵みによって」与えられます。モーセの律法への従順は、当時の人々の信仰表現です。
イスラエルの民は、モーセによって肉体的出エジプトを経験しました。私たちは、キリストによって霊的出エジプトを経験します。出エジプトは、私たちの物語でもあります。パレスチナに到着したへブル民族が、ヨシュアの指導の下で、奪取のための闘いが繰り広げられます。パレスチナの王から、エジプトの王に救援を依頼する文書(アマルナ文書)が残されています。「ハビル(へブル)は我々の要塞を奪取している。彼らはわれわれの町を奪おうとしている。われらの統治者を滅ぼそうとしている。彼らは王(アメンホテプ2世)の全土を略奪している。王よ、速やかに軍隊をお送りになるように。もし軍隊が年内に来なければ、王は全国土を失われるでしょう。」王がメルネプタの可能性もあります。もしメルネプタとするなら、「イスラエル碑石」が残されており、この碑石は現在カイロ博物館にあります。碑文には「カナンは略奪された、イスラエルは荒廃した。その種はいなくなった。パレスチナはエジプトにとってやもめとなった。」と書かれてあります。
書かれたユダヤ教の成立
ユダヤ教について知ることはキリスト教を知り、理解する上で極めて重要です。ユダヤ教とは、旧約聖書に記された内容ですが、新約聖書は旧約聖書の土台の上に立っています。ユダヤ教は、唯一絶対の神を信仰するユダヤ人の民族宗教です。モーセの律法と神との契約に基づき、選民思想・終末論およびメシアの来臨を信ずることなどが特徴です。
旧約聖書には、39巻あり、内訳は歴史書17巻、詩書5巻、預言書17巻です。歴史書のうち、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の5巻は、モーセ5書とよばれ、本来は一つの書として書かれたものです。歴史書は、モーセ5書のほかに、ヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記(第一、第二)、列王記(第一、第二)、歴代誌(第一、第二)、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記があります。ユダヤ教の中心はトーラー(律法とも訳されます)で、狭い意味ではモーセ5書、の部分を言いますが、それを補足・解説するものとして預言書・諸書をも含み得ます。
「書かれたトーラー」の意味を特定の解釈原理によって解き明かしたしたものをミドラシュといいます。ミドラシュは各時代のユダヤの信仰を知るうえで重要です。すでに紀元前において、モーセ5書は、聖書中格別の位置を占めるものとものと信じられてきており、異なった社会的・文化的環境の中にあるユダヤ人は、トーラーの教えを現代化する必要がありました。トーラーは、テーマ別に配列・整理され2世紀から3世紀にかけてミシュナとよばれるものが成立します。トーラーとミシュナを併せたものを普通にはタルムードといいます。
ユダヤ教はバビロン捕囚から帰還後の前517年、エルサレム神殿の再建・祭祀(さいし)の確立をもって成立したとされます。キリスト教では、旧約聖書の続編を新約聖書としていますが、ユダヤ人は、旧約聖書の続編をミシュナ・タルムードといっています。
前13世紀末に,イスラエル人はパレスチナ(カナン)に侵入して〈約束の地〉に定着します。前10世紀(1000年)ころ,ユダ族出身のダビデが王となり,シリア・パレスティナ全域にまたがる大帝国を建設し,エルサレムを首都に定めます。その子ソロモンが,エルサレムのシオンの丘に主の神殿を建立すると,主はダビデ家をイスラエルの支配者として選び,シオンを主の名を置く唯一の場所に定める約束をした,と理解されました(〈ダビデ契約〉)。ここから,〈メシア〉(原義は〈即位に際して油を注がれた王〉)が,世の終りにダビデ家の子孫から現れるという期待と,エルサレム(シオン)を最も重要な聖地とする信仰が生じました。
前586年にユダ王国が滅亡し,エルサレム神殿が破壊されて古代イスラエル時代は終わります。その後約半世紀続いたバビロン捕囚の苦難を通して,古代イスラエルの宗教的遺産を民族存続の基本原理とする共同体〈ユダヤ人〉が成立しました。前538年にペルシアのキュロス2世が捕囚民の解放令を発布すると,一部のユダヤ人は故国に帰還して,エルサレム神殿を再建しました。これを第2神殿と呼びます。以後,後70年にローマ人が第2神殿を破壊するまで,ユダヤ人は,エルサレム神殿を中心とする民族的・宗教的共同体として自己形成をしました。
しかし,この共同体の独自の生き方を決定したのは,前5世紀中葉に,バビロニアから〈モーセの律法〉の巻物を携えて来たエズラでした。彼は律法を公衆の面前で朗読すると同時に解説しました。エズラは,この時代までに変更不可能な聖典として成立していた成文律法を,変化する現実に適用する方法を教えた最初の律法学者でした。エズラ以後,ユダヤ人は,成文律法の解釈のほかに,より広範囲な権威に基づいて決定された法規にも,成文律法と同等の神聖な権威を認め,これを口伝律法と呼びました。
以後1000年間に,口伝律法は発展し,膨大な集積となりました。口伝律法の研究と発展に携わった律法学者が,ラビという尊称で呼ばれたことから,この時代に形成されたユダヤ教を,特に〈ラビのユダヤ教〉と呼びます。長い間,口伝律法は口頭で伝承されていましたが,後200年ころ,総主教ユダ(イェフダ)によってミシュナに集成されました。その後さらに300年間,ミシュナの本文に基づく口伝律法の研究が積み重ねられた結果,4世紀末に〈エルサレム(別名パレスティナ)・タルムード〉,5世紀末に〈バビロニア・タルムード〉の編纂が完結しました。ミシュナとタルムードは,成文律法を中心として1世紀末に成立した旧約聖書とともに,ユダヤ教の聖典となりました。
〈ラビのユダヤ教〉時代は,ユダヤ民族が何度も絶滅の危機にさらされた激動の時代でした。まず,前4世紀末,アレクサンドロス大王の東征によって引き起こされたヘレニズム化の波が,政治的・文化的衝撃となってユダヤ人共同体の存立を根底から揺るがしました。特にセレウコス朝シリアの王アンティオコス4世は,ユダヤを征服すると,ユダヤ教を禁止してヘレニズム化政策を強行しました。信仰を守るため蜂起したユダヤ人は,マカベア党を中心とする反乱(マカベア戦争)を起こし,長い苦闘の末,マカベア(ハスモン)家によるユダヤの独立を回復しました。
しかし前63年には,ユダヤはローマの属領となり,ローマの属王ヘロデの支配を受けます。過酷なヘロデの支配に続いて,ローマ人総督が悪政の限りを尽くしたため,ついにユダヤ人は大反乱を起こしました(ユダヤ戦争。66-70年)。一時はローマ軍の排除に成功しましたが,結局反乱は鎮圧され,エルサレム神殿は完全に破壊されてしまいました。
このときまで,ユダヤ人は神殿祭儀を宗教活動の中心とみなしてきました。しかし,すでにバビロン捕囚時代から,神殿祭儀なしに民族的・宗教的共同体を維持する努力が払われてきていました。その結果,第2神殿時代を通じて,礼拝と律法研究のために,安息日(シャバット)ごとに各居住地の成員が集まるシナゴーグ(集会所)が発達していました。
パリサイ派律法学者たちは,シナゴーグを活動の本拠としていたため,神殿の破壊から本質的な打撃を被りませんでした。彼らは海岸地方のヤブネに集まり,それまで神殿にあったサンヘドリン(議会)を再興して,律法と律法解釈に基づくユダヤ人共同体の形成・維持を続行しました。第2反乱(132-135)によってヤブネが破壊されると,ユダヤ人共同体の中心はガリラヤに移り,5世紀初頭に,キリスト教を国教とするローマ帝国の弾圧によってユダヤ総主教職が廃止されるまで続きました。
ペルシア時代以来,多数のユダヤ人が,パレスティナ本国以外の世界各地に居住していました。彼らをディアスポラ(離散民)と呼びます。ディアスポラは,ヘレニズム・ローマ時代に大発展を遂げ,1世紀に,その人口は本国のユダヤ人の数十倍に達していました。大部分はローマ帝国内にいたが,再度にわたる反乱の際に,ディアスポラも厳しい弾圧を受けたため,ローマ帝国の支配圏外にあったバビロニアのディアスポラが徐々にユダヤ人世界の中心になっていきました。
特に5世紀以降は,バビロニア各地にあった教学院(イェシバーyeshivah)に集まった律法学者たちが,〈ラビのユダヤ教〉を完成する任務を遂行しました。その結果,ユダヤ民族・宗教共同体の歴史的軌跡であり,その生き方の基準である口伝律法の集大成として,〈バビロニア・タルムード〉が編纂されました。
中世以後,現代に至るユダヤ教は,〈ラビのユダヤ教〉が確立した教義の展開です。この間に,ユダヤ人世界の中心は,周辺世界の情勢に応じて世界各地を転々と移りました。10世紀まで,前時代の伝統を継承したバビロニアが中心であったが,それ以後ユダヤ人共同体は,イスラム教徒が支配する北アフリカとスペインで繁栄しました。当時,カライ派Karaitesと呼ばれるセクトが発生し,口伝律法の権威を否定して各自が成文律法(旧約聖書)を直接解釈するべきであると説きました。一時,大勢力になったが,結局,余りにも厳格な律法主義に陥り,広く民衆の支持をえることができなかったため急速に衰退しました。
ユダヤ人世界には,11世紀までに,スペインを中心とするイスラム教圏のスファラド系(セファルディム)と,ヨーロッパ・キリスト教圏のアシュケナーズ系(アシュケナジム)の二つの大きな文化的伝統が確立しました。10世紀以降,アシュケナーズ系ユダヤ学がライン川流域地方で盛んになり,西ヨーロッパ全域に大きな影響を及ぼしました。中世最大のユダヤ学者マイモニデスは,スファラド系哲学とアシュケナーズ系ユダヤ学を総合した人物です。
第1回十字軍(1096-99)とともに,キリスト教ヨーロッパは,血腥(なまぐさ)いユダヤ人迫害の歴史を開始しました。以後,西ヨーロッパ各地で迫害を受け,追放されたユダヤ人は大挙して東ヨーロッパに逃亡しました。その結果,中世以後20世紀前半まで,東ヨーロッパがアシュケナーズ系文化の中心となりました。
他方,キリスト教化したスペインから15世紀末に追放されたスファラド系ユダヤ人は,中東各地に移住しました。その一部が定着したパレスティナのツファットは,16世紀にカバラ神秘主義の中心となりました。カバラの起源は,ヘレニズム・ローマ時代のユダヤ人が著作した黙示文学です。これらの著作は,現在を悪が支配する世界とみなし,やがて到来する世の終りに,神が悪の力を滅ぼして正義を確立するという世界観と,神秘的表象を用いる点に特徴があります。現世における厳しい迫害に絶望した中世のユダヤ人が,終末時に来臨するメシアが民族と宇宙を救うという黙示思想に共感して,カバラ神秘主義を発展させてきました。しかし,終末の救済の秘儀にあずかるためには,律法を順守しなければならないというカバラの結論は,正統的な〈ラビのユダヤ教〉への回帰にほかなりませんでした。
カバラ神秘主義の影響下に,16~17世紀には,自称メシアが各地で出現しました。その一人,サバタイ・ツビのメシア運動は,一時全ユダヤ人世界を巻き込むほどの大成功を収めました。しかし,この偽メシアはトルコのスルタンに逮捕されると,イスラム教に改宗しました(1666)。サバタイ騒動が残した深刻な精神的危機を克服する試みの中から,東ヨーロッパでハシディズム運動が起こりました。ウクライナの貧民出身のバアル・シェムトーブBaal
Shem Tov(1698-1760)は法悦状態に没入し,祈禱において神と交わる神秘的救いの重要性を説いて,無味乾燥な律法主義にあきていたユダヤ人大衆の心をつかみました。しかし,正統派は,律法研究よりも法悦を重視するハシディズムを異端とみなし,〈ミトナグディームMitnaggedim〉(〈反対者〉の意)という運動を起こしました。半世紀に及ぶ激しい争いののち,19世紀初頭になると,両者は急速に和解しました。帝政ロシアの同化政策によるユダヤ人共同体の分解と,ハスカラーHaskalah(ユダヤ啓蒙主義)思想によるユダヤ教的伝統の破壊という,内外からの危機が迫ったからです。
17世紀後半に,西ヨーロッパにおいて,宗教的熱狂主義が終わり,中央集権的絶対主義と重商主義に基づく世俗的近代国家の形成が始まると,中世の宗教的伝統から個人の解放を目ざす啓蒙主義が,時代を支配する思潮となりました。その影響下に,ユダヤ人世界においては,ハスカラーと呼ばれる啓蒙主義運動が起こりました。
カントと並ぶ当代最大の哲学者として尊敬されたM.メンデルスゾーンを精神的父と仰ぐユダヤ人啓蒙主義者は,ユダヤ人固有の文化を捨ててヨーロッパの世俗文化を学ぶことが,中世以来の社会的差別からユダヤ人を解放する前提であると考えました。19世紀に,民族主義に基づく近代国家が成立すると,彼らは,ユダヤ教の伝統的教義である民族と宗教の間の不可分な関係を否定する〈改革派ユダヤ教〉を創設しました。
現在,ユダヤ人はいずれも概数で,イスラエルに360万,アメリカ合衆国に600万,旧ソ連に140万,ヨーロッパ諸国に130万,その他の地域を合わせて計1400万人います。イスラエルのユダヤ人人口の4倍に達するディアスポラは,各自が居住する国家のユダヤ教徒市民です。しかし,イスラエルは,1950年に帰還法を制定して,これらのディアスポラがイスラエル移住を希望すれば,ただちにイスラエル市民権を与えると約束します。これは,イスラエルをユダヤ人の〈祖国〉として建設したシオニズムの理念に基づく決定であるが,民族と宗教の関係は不可分であるという伝統的教義の確認でもある。この教義は,政教分離をたてまえとする現代国家イスラエルにとって,複雑な問題を提供しています。事実上,ユダヤ教の宗教法は,イスラエルの市民生活を規制しています。そこで,市民生活に宗教法を強制的に適用することに対しては,つねに多数の市民が反発しているが,ナチスの犠牲者600万人を〈殉教者〉として弔うことに異議を唱える市民は少ない。
他方,現在最大のユダヤ人共同体を形成するアメリカのユダヤ人は,共同体の内的崩壊により,アメリカ社会に同化吸収される危険を感じている。アメリカでは,〈ラビのユダヤ教〉の伝統的戒律を文字どおり順守する正統派のほかに,倫理的戒律と生活的戒律を区別して,後者は精神的解釈にとどめようとする改革派と,両派の中間的立場をとって,戒律の歴史的発展を主張する保守派の3派が均衡を保って並存している。しかし,シナゴーグの礼拝に参加するユダヤ人は,全人口の4分の1にとどまり,適齢期の男女の5人に1人は非ユダヤ人と結婚するため,アメリカのユダヤ人共同体の存続を問題視する説がある。これに対して,ソ連のユダヤ人共同体は,国家の強制的同化政策によって消滅の危機にさらされていた。しかし,そのためにかえってユダヤ人であることの意識を強くもち,反体制運動に参加する多数のユダヤ人がいた。アメリカのユダヤ人もソ連のユダヤ人も,アラブ諸国と戦争状態を続けるイスラエルの運命に深い関心を抱いており,そのことが,彼らのユダヤ人としての自意識を支えていることも事実である。ユダヤ教徒は民族なのか,信徒集団なのか,という問題は,簡単に割り切ることができない歴史的問題なのです。
<教義と戒律>
〈ラビのユダヤ教〉は613の戒律を定める。これらの義務律248戒と禁止律365戒は,狭義の宗教的戒律のほかに,倫理的戒律と生活的戒律を含み,民族共同体の生き方そのものが宗教であるユダヤ教の特徴を表している。ユダヤ教において,神の存在は自明な真理であって,その証明を必要としない。神は唯一であり,その統一された意志の下に,宇宙が創造され,イスラエルが選ばれ,歴史が運営されている。神はどのようなかたちも取らず宇宙を超越した存在であるが,同時に宇宙に遍在しているから,神に向かって祈る個人にも神は来臨し,滞留(シェキーナー)する。神は全知全能であり,聖にして完全な存在,永遠の生者である。彼は,憐れみによって世界と人間を創造し,正義によってこれを支配する。
人間は神のかたちに創造された存在であり,人生の目的は,現在なお進行中の神の創造の業に参加し,これを完成して創造主に栄光を帰すことである。したがって,人間は神のように恵み深く,憐れみに富み,正しく完全でなければならない。
しかし,人間の本性の中には悪の衝動が含まれているから,これを押さえて神の創造の業に参加することは,各人が自由意志に基づいて決定しなければならない。神の意志に反抗することが罪である。具体的には,十戒を代表とする律法に定められた戒律違反が罪であるが,特に重罪として,偶像礼拝,姦淫,殺人,中傷の4罪がある。いずれも,神のかたちに造られた人間の尊厳と,選民による共同体の形成にかかわっている。人間は罪を犯しやすい弱い存在であるが,憐れみ深い神は,悔い改めた罪人を必ず許す。しかし,正義の確立によって宇宙創造の完成を目ざす全能の神は,死後も各人の責任を追及する。
そこで,この世の終りに,神はメシアを派遣して神の王国の建設を準備させる。その後で来るべき世界が始まると,すべての死者はよみがえり,生前の行為に応じて最後の審判を受ける。その結果,罪人は永遠の滅びに落とされ,義人は永遠の生命を受ける。このような神の姿と人間の運命を示す律法が選民イスラエルに啓示されて以来,律法を順守して神の意志を全世界の諸民族に伝えることが,イスラエルの任務となった。〈シェマ・イスラエルShema‘
Israel(聞けイスラエル)〉は,唯一の神に対する中心的信仰告白である。〈聞けイスラエル,我らの神,主は唯一の主なり。汝,全心,全霊,全力を尽くして汝の神,主を愛すべし〉(《申命記》6:4)。ユダヤ教徒は,この告白を書きつけた羊皮紙を収めた革の小箱(テフィリンtefillin)を,一つは左上腕に,もう一つは額に巻きつけて朝禱を捧げる。朝,昼,晩と1日に3度〈アミダーamidah(立禱)〉を起立して祈る。これは,父祖の神の全能と聖名の賛美に始まり,神のシオン帰還とイスラエルの祝福で終わる19項目の祈禱であるが,本来は18項目であったことから,〈シュモネー・エスレーshemoneh-esreh〉(〈18の祝禱〉の意)と呼ばれる。立禱は個人で祈ってもよいが,正式には成人男子10人以上の集団(ミヌヤンminyan)で祈ることになっている。
安息日ごとに行われる公の礼拝の中心は,律法(〈モーセ五書〉)の朗読である。律法は,毎週1区分ずつ朗読して,1年間で読了するよう54区分されている。安息日は,金曜日の日没に始まり土曜日の日没に終わるが,神の恵みの業(わざ)を思い起こすため,すべての労働を休む神聖な日である。
ユダヤ暦は太陰暦で,太陽暦の9~10月に始まる秋年である。次のような祝祭日がある。新年祭(ティシュリ月1日)--神の世界創造を記念し最後の審判を思う。贖罪日(同10日)--断食をして罪の許しを乞う。仮庵の祭(同15~21日)--エジプト脱出後の荒野放浪の記念。律法の歓喜祭(同22日)--1年かかった律法の読了を祝う。ハヌカ祭(キスレウ月25日~テベト月2日)--前164年のエルサレム神殿奪回の記念。プリム祭(アダル月14~15日)--エステルがユダヤ人を救った伝承の記念。過越の祭(ニサン月15~21日)--エジプト脱出の記念。七週祭(シワン月6日)--モーセに十誡が授けられたことの記念。アブ月9日祭--エルサレム神殿の破壊を嘆く。
安息日と祝祭日の食事は,家庭で守らなければならない。したがって,家庭を形成するために結婚することは,重要な戒律として定められている。男子は生後8日目に割礼を受け,同時に命名される。これは,新生児が〈アブラハム契約〉に参加してユダヤ人共同体の一員になったことを示す儀式である。少年は13歳で〈バル・ミツバーbar
mitzvah〉(〈戒律の子〉の意)という成人式を行い,戒律を守る義務を負う。祭儀的な潔,不潔の区別が重んじられ,しばしば汚れを清めるために洗手,水浴などを行う。また,〈カシュルートkashrut(適正食品規定)〉に従って,不潔と定められた豚肉などの食用,肉とミルクの混食などが禁じられている。これらの規定は,聖別された選民の身分を守るための戒律である。
ユダヤ教の歴史は民族の歴史とともに古い。セム人に属する半遊牧的なユダヤ人の祖先が、民族移動の大きな波のなかでメソポタミアから地中海東岸沿いの地に定住するようになったのは、紀元前18世紀ごろのことと考古学では推定する。
『旧約聖書』の「創世記」12章以下のアブラハムの記事はこのような状況を反映している。
ユダヤ教にとって歴史上画期的なできごとは、モーセの指導により民族がエジプトから脱出し、シナイ山において神ヤーウェと契約を結んだことであった。
紀元前10世紀にエルサレム神殿を建立してからの民族の歴史は、亡国、離散、迫害、虐殺という悲劇的な歩みの連続であり、つねに民族のアイデンティティを求める闘いであった。紀元後70年にローマの手で破壊されたエルサレム神殿の喪失は、ユダヤ教にとってとりわけ決定的な意味をもった。なぜなら、神殿祭儀を中心としていたそれまでのあり方が根本的に変質を迫られることになったからである。
このような状況によく対処しえたのは、律法の厳格な遵守を目ざすパリサイ派の流れをくむ規範的ユダヤ教の努力の結果であった。彼らは、神殿祭儀にかえてシナゴーグでの祈りや日常的な律法研究を重視し、神のことばとしての律法のなかにユダヤ人としての行動の規範を追求した。成文律法のほかに口伝(くでん)の伝承をも認める立場が、危機的状況に対処しうる弾力性を与えたといえよう。この口伝律法はその後タルムードに集大成されてユダヤ教徒の生活と行動の規範となったものであり、現在にまで続くユダヤ教の性格を決定することとなった。
ユダヤ教がタルムード以後規範的宗教としての特質を強調すればするほど、この規範性によっては満たしえない人間の宗教的心情を重視する神秘主義的傾向も大きな流れとなって展開する。
これは、律法やタルムードの文字の背後に隠されている真理を霊的努力によって把握しようとする思想であり、中世スペインやパレスチナで盛んとなった。カバラとよばれるこのユダヤ教神秘主義思想は『ゾハール』(光輝の書)などに代表されている。この流れのなかから、近代に入って、祈りに精神を集中することによって神との神秘的交わりを得ることを願うハシディズムがポーランドにおこり、東欧ユダヤ人の心をとらえていった。
ユダヤ人は中世を通じて宗教的にも文化的にも、また社会的にも離散社会のなかで孤立した生活を続けてきた。しかし近代西ヨーロッパの啓蒙(けいもう)思潮は彼らのうえにも例外なく及び、人間性の解放として展開する。しかし彼らの場合、人間性の解放は同時に民族性の排除でもあった。この動きのなかからドイツで誕生した改革派は、シナゴーグ礼拝の近代化を推し進めたが、祈祷(きとう)書からシオンの再建とエルサレム神殿祭儀の復活を削除するなど、民族性排除の傾向をはっきりとうかがわせる。彼らは普遍性の高い預言者の倫理思想をとくに強調した。この改革派がもっとも自由に活躍しえたのは、伝統の束縛がないアメリカ合衆国においてであった。
伝統と現代性との間の緊張を問題としつつも、あまりに過激に走る改革派の動きについてゆけぬ人々の間から保守派ユダヤ教が生まれた。彼らは伝統的ユダヤ教の本質をたいせつに維持しながら、歴史に根拠のある改革を受け入れ、現代社会への適応性を高めようとした。このために。イエスが神によって託された使命は十字架上で死なれることでした。は、ユダヤ教の歩んできた道を歴史的に検証する必要があり、いわゆる「ユダヤ学」発展の契機となった。
19世紀の改革派、保守派の動きに同調しなかったヨーロッパのユダヤ人はすべて正統派とよばれる。正統派のうちでもごく一部の人々はいっさいの変革を拒否し、中世的伝統主義ユダヤ教を保守しようとする。彼らはテレビ、新聞をはじめ、現代文化を受け入れない。しかしその他の大部分は、いわゆる新正統派とよばれる人々で、現代社会の文化価値を受け入れる。これは、時代の流れへの譲歩ではなく、環境社会の文化を吸収し、かつその社会のことばでユダヤ教の価値と思想を表現するのは、過去の歴史に明らかなごとくユダヤ教本来の必然性である、と理解するからである。歴史批評的研究方法を彼らが受けつけないことはもちろんだが、日常行動の諸規定であるハラハーHalachaの解釈と基準の適用にはそれでも柔軟性が認められる。このように現代では正統派、保守派、改革派の三派が並存しているのが現状である。
ユダヤ教の聖典はヘブライ語の聖書である(内容的にはプロテスタント・キリスト教の『旧約聖書』と共通)。とくに冒頭の「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記(しんめいき)」のいわゆる「モーセ五書」はトーラー(律法)とよばれて神聖視されている。神がその意志をモーセに直接啓示した内容と信じられているからである。しかし後のユダヤ教の伝承によれば、シナイ山でモーセが受けた啓示の内容は、成文化されているトーラーだけではなく、口伝の律法をも含むと考えられた(ミシュナ・アボット1.1以下参照)。したがって成文律法(モーセ五書)と並んで口伝律法(ミシュナ)がともに神的権威をもつものと受けとめられてきた。このミシュナは200年ごろラビ・ユダによって結集され、その後パレスチナ、メソポタミア両地の律法学者がこれを基本テキストとして多様な議論を展開し、かつ注釈を加えていった。この議論および注釈をミシュナ本文とあわせて集大成したのがタルムードである。4世紀後半にパレスチナで完成したものはエルサレム(パレスチナ)・タルムードとよばれ、これとは別にメソポタミア地域の学者の成果を500年ごろ集成したのがバビロニア・タルムードとなった。
祖国を失い世界の各地に離散したユダヤ人がタルムードの示す宗教的行動規範に従うことによって、ユダヤ人としてのアイデンティティを保持することができたのである。「持ち運びのできる祖国」(C・ロス)と称されるゆえんである。したがってユダヤ教にとってタルムードは聖典に準じるものとしての位置づけをもっているといってよい。
<安息日と祭り>
1週間の生活でもっとも重要な「時」は安息日である。金曜の日没から土曜の夕までの1日である。この日ユダヤ人はいっさいの日常の仕事に従事することを禁じられている。神のみが存在するいっさいの創造者であり、主であることを認識するために、自然界と人間が営む世界への働きかけからユダヤ人は身を退けなければならない、とされる。
古代イスラエルにはエルサレム神殿に詣(もう)でる三大巡礼祭があった。仮庵(かりいお)祭(スッコート)、過越(すぎこし)祭(ペサッハ)、五旬節(シャブオート)である。いずれも収穫に関連した農耕的な祭りであったが、歴史のできごとと結び付けられて神殿喪失後現在に至るまで祝われ続けている。仮庵祭はエジプト脱出後の荒野での生活、過越祭はエジプト脱出時の奇跡的故事、五旬節はシナイ山におけるトーラーの啓示を記念する行事である。
ユダヤ人の暦では秋のティシュリの月に1年が始まる。月初めに新年祭(ローシュ・ハッシャナ)を祝い、その月の10日に贖罪(しょくざい)の日(ヨーム・キップール)を迎える。この日はユダヤ教におけるもっとも厳粛なときであり、悔い改めと神の赦(ゆる)しを求めてこの日一日完全に断食(だんじき)を守り、シナゴーグで祈りに終始する。罪を告白し、人間の至らなさを悔いるとともに神の無限の慈(いつく)しみをたたえ、心にしみ渡るコル・ニドレイの壮重な調べにのせて宗教的な誓いの束縛からユダヤ人が解放されることを願う。
このほかに12月に8日間のハヌカー祭がある。前2世紀中ごろセレウコス家(シリア)の支配をはねのけて、穢(けが)された神殿を潔(きよ)めて再奉献したことを祝う。また一説には、わずか一壺(つぼ)の穢れていない油が神殿再奉献の際8日間も灯明(とうみょう)として燃え続けた奇跡を記念するともいわれる。八枝の燭台(しょくだい)を窓辺でともす慣習がある。また春のアダルの月14日には、「エステル記」に語られるユダヤ人の救いを記念したプリムの祭りが祝われる。
新約聖書「マタイによる福音書」にはイエス・キリストの系図が出てくる。
1 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。
2 アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、 3 ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、
4 アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、 5 サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、
6 エッサイにダビデ王が生まれた。
ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、 7 ソロモンにレハベアムが生まれ、レハベアムにアビヤが生まれ、アビヤにアサが生まれ、 8 アサにヨサパテが生まれ、ヨサパテにヨラムが生まれ、ヨラムにウジヤが生まれ、
9 ウジヤにヨタムが生まれ、ヨタムにアハズが生まれ、アハズにヒゼキヤが生まれ、 10 ヒゼキヤにマナセが生まれ、マナセにアモンが生まれ、アモンにヨシヤが生まれ、
11 ヨシヤに、バビロン移住のころエコニヤとその兄弟たちが生まれた。
12 バビロン移住の後、エコニヤにサラテルが生まれ、サラテルにゾロバベルが生まれ、 13 ゾロバベルにアビウデが生まれ、アビウデにエリヤキムが生まれ、エリヤキムにアゾルが生まれ、
14 アゾルにサドクが生まれ、サドクにアキムが生まれ、アキムにエリウデが生まれ、 15 エリウデにエレアザルが生まれ、エレアザルにマタンが生まれ、マタンにヤコブが生まれ、
16 ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。
17 それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。
イエスキリストの血液に、ルツの血が入っていることが書かれている。ルツはルツ記に、二人の息子がモアブの女を妻に迎え、2人の一人がルツであったことが記されている。また信仰によって、ヨシュアの偵察隊を助けたラハブも出てくる。「遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。」ダビデ王には、異邦人の血が入っているのである。バビロン移住からキリストまでに、十四代とあり、人間イエス・キリストは、ユダヤ人であったことが分かる。
またカール・マルクスもユダヤ人である。カール・マルクスとは、「資本主義」と戦った社会思想家である。カール・マルクスは、資本主義社会で生まれ、育ち、資本主義が不完全な社会制度であることに気づき、この社会を変革しようと戦った人間である。マルクスは彼なりの「出エジプト」を試みたのである。