本日は、社会的福音のお話を、実例を挙げてしたいと思います。
社会的福音と福音はコインの両面です。しかし、福音派の人たちは、社会的福音についてはあまりよく知らないのです。福音は英語では、ゴスペル(グッドニュース)といいます。わかり易く言えば、良き知らせという意味です。社会的福音は、英語ではソーシャルゴスペルです。
社会的福音とは、①貧困、②飢餓、③ジェンダー④環境問題、などと格闘している多くの方々が世界中におられ、この重圧から解放されることを願う人にたいして、問題の解決を告げることです。
こうした社会問題と取り組んだ人物として、日本では、賀川豊彦の名前はよく知られています。彼の著作の「死線を超えて」を読まれた方は少なくはないはずです。キリスト教における博愛の精神を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高く、戦前は、現代の「三大聖人」として「カガワ、ガンジー、シュヴァイツァー」と称されました。茅ヶ崎の平和学園の創始者でもあります。
アメリカでは、ウォルター・アウシェンブシュがよく知られています。彼は、ニューヨークのスラム街にある教会で11年間牧会し、神学校で教えた後、『キリスト教と社会的危機』を出版し、社会的福音の指導者となりました。彼は、「宗教における力は、ただ人々を新しく神にとらえていただくという偉大な基本的願望によってくる」として、この観点から当時の経済問題を取り上げたのです。彼の指摘のいくつかをあげると、①競争社会の危険性です。人は「必死になって争う」法則のとりこになる時、友愛を否定し、利己心や貪欲を野放しにします。これはキリスト教社会秩序の基本を裏切り、人を、本能中心の低次元な動物に落としてしまいます。
②利己心と結果だけを求める功利的な貪欲が、食品などの品質低下、偽りの広告、不道徳な消費生活を招く現実にも着目しました。利潤の追求だけに専念するのは精神の堕落にほかなりません。利潤追求もまた危険です。「キリスト教が決して主張しない拝金主義を生み出すからです。
このような現実に対抗し得るものとして、アウシェンブシュが寄りかかったのが、ドイツの自由主義・神学者A.B.リッチェルの「神の国論」でした。アウシェンブシュはバプテスト派の牧師でしたが、神学的には自由主義神学に頼らざるを得なかったのです。「神の国の実現を目指して」は、社会的福音の牧師たちの、合言葉となっていったのです。
社会的問題とは何か。わたしたちはSDGsでそのことを知っています。SDGsとは、国連が定めた、2030年までに解決しなければならない17の社会的目標のことで、SDGsが掲げる標語は誰一人取り残さないです。17の目標を達成しない限り、地球を存続し持続的に開発していくことは困難になります。17の目標とは、「①貧困」「②飢餓」「③健康と福祉」「④ジェンダー平等」「⑤安全な水と衛生」「⑦クリーンエネルギー」「⑧良い仕事」「⑨イノベーション」「⑩ゼロ不平等」「⑪都市と居住」「⑫生産と消費」「⑬気候変動」「⑭海の生物多様性」「⑮陸の生物多様性」「⑯平和」「⑰ナイスパートナーシップ」です。これらが社会的課題です。私たちは、17の目標の一つでも実現するために、少しでも努力を重ねることが求められているのです。冒頭で、国連が定めたと申しました。実は神が定めた目標と言いかえることができます。
ルカによる福音書の4章には、会堂の中でお立ちになっておられるイエスに対して、聖書が手渡された。それは、預言者イザヤの書で、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。『わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために』。
ここで語られたイザヤの言葉は、実は、イエス様の役割について語られているのです。貧困問題に取り組みなさいと神はイエスさまに語られているのです。同様なことは、ジェンダーについても言われています。本日は、社会的福音の実例として、2人の人物たちについて、見ていきたいと思います。一人は「姦淫の女」、2番目は貧困から抜け出るために日本に来た男です。少し長いですが辛抱してお読みください。
ジェンダー問題の例は、ヨハネの福音書 8章1節から出ています。
イエスはオリーブ山に行かれた。
そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。」
律法学者とパリサイ人は、姦淫の罪は、石打の刑罰だと決めておりました。イエスを試すため、かれのまえに姦淫の女を引き連れてきました。彼女は、イエス様のほほえみを見て、はっきりと知ったのです。このお方は、見えない慣習とか伝統の鎖で人間を縛る世の宗教家や道徳家とは違う、また自己の狭い論理の世界の中で、筋を通すことに満足し、それで人を裁くことを使命と考えているような心の狭い学者や鼻持ちならない正義漢ではない、このお方は、わたしの全てを見通されている、わたしという女をすっかりご存じの上で、受け入れて下さっている、わたしは愛されている、そう、愛だ。だがそれは、これまで接してきた男たちの愛とは全く違う。彼女の心には、人びとの前にさらされていた時の恥ずかしさとは異なった恥じらいが、そして喜びがこみ上げ、どっと熱いものがあふれてきました。イエス様のほほえみは、彼女にとって、これまで見失っていた人間性の息吹く世界へとはばたく力、泥沼の中から彼女を解放して新しく自由に生きさせる力だったのです。
聖書の話を一つ持ってきました。
ここで、ある一人の男に話題を転じてみましょう。その人は日本統治下の朝鮮で生まれ、日本に移民し、日本では相撲とプロレスで大活躍し、39歳の若さで亡くなった人物、金 信格( キム・シルラク )です。日本では力道山と名乗りました。敗戦後、意気消沈する日本人に勇気と自信を取り戻させた男でした。
日本の敗戦後、朝鮮では朝鮮戦争がおこりました。日本の統治下で、朝鮮人は日本に強制徴用され、炭鉱労働者、土木工事労働者などで、こき使われました。力道山は、14歳まで、シルムという朝鮮相撲の力士でしたが、日本の警官によって、強制的に、日本に連れてこられ、1940年、二所ノ関部屋に入れられました。日本にいた時の戸籍上の日本名は百田光浩です。1949年の5月には関脇に昇進しました。
1950年の5月場所を最後に引退・廃業し、プロレスラーに転向しました。力道山にとっては、日本も生まれ故郷の朝鮮も、同じ祖国だったのです。孤軍奮闘と言いますが、彼は彼なりに全力投球したのです。力道山は、1942年と1945年の2度朝鮮に戻っていますが、3度目に戻った時には、日本の敗戦後で、北朝鮮には戻れませんでした。
彼は日本に行く前にすでに結婚しており、北朝鮮で生まれた金英淑の存在は日本人には秘密でした。彼女は、17歳の時日本に行き、新潟港で父親と対面しています。娘はその時の様子をこう話しています。『私には入国の許可が出ていないので、上陸はせず、船中で父と会いました。私はその頃、バスケットのナショナルチームの一員でしたので、64年の東京オリンピックの時、ぜひまた会おうと、父は言いました。』力道山は娘に対して、東京オリンピックでは、共産圏の選手団の面倒を全部見てやる、と話したそうです。力道山が日本に行ってしまった後の金一家の生活は、貧しいものでしたが、食べていくことはできました。金英淑は、小学校の三年生の頃から背が高く、運動神経も人並み外れてよく、周りから注目されました。本当は絵をかくのが好きで、将来は画家になりたかったものの、力道山の娘として、また運動能力の面でも知られた存在で、バスケットボールのナショナルチームの選手として活躍しました。その後体育大学に進みましたが、ちょうど彼女が大学に上がる少し前に、力道山と新潟港で再開したのです。
力道山は、自分の娘のみならず、新潟港から引き揚げ船に乗り、祖国へ帰っていく同胞の見送りに、時間の許す限り、必ず新潟港に行っていたそうです。力道山は誰にも知られず、真夜中一人車を飛ばし、新潟港の陰で涙を流しながら、遠くから同胞たちに別れを告げたそうです。遠い祖国からはるばるやってきた娘と再会した時、激情家の力道山は、少なくとも、その言い伝え以上に慟哭したに違いありません。
力道山は1963年、日本航空の国際線スチュワーデス、田中敬子と婚約しました。日本人にとってだけでなく、朝鮮半島にすむ人々にとっても祖国の英雄である力道山には、韓国訪問の話が何度も来ていました。しかし、その都度、力道山は断り続けました。自分の出生を、隠し続けなければならないからでした。韓国に行ったことが公になれば、「日本の英雄が実は日本人ではなかったことがおおやけになり、本人がここまで盛り立ててきたプロレスの人気が落ちてしまう」と考えたのです。
力道山は側近に、「韓国行きの話があるんだ。俺はあまり気が進まないんだが…・。俺が韓国に行けば、新聞にはおそらく、力道山故郷に錦を飾る、なんて書かれるだろうな。俺は人気が落ちるのは構わないんだ。ただ、ファンの子供たちが力道山が持っているイメージが、狂うようなことがあったら困る。・・・・」と相談しました。その時側近は「そんなこと、どうってことないでしょう。たとえ百人の子供のうち、五十人が離れても、力道山の生き方を見て、やっぱり立派な人、強い人と思い直せば、きっとついてきますよ。」と言いました。
力道山は肚をきめました。「そうか、わかった。それじゃ、お前のいうことを聞いて、韓国に行こう」ただし、韓国行きは、極秘とされました。関係者には、箝口例が敷かれました。日本出発は、婚約発表をした翌日の1月8日でした。韓国では力道山は、国賓級の待遇を受けました。ジープが日韓両国の国旗を掲げて先導していく中を、力道山はシボレーのオープンカーに乗って、ソウル市内をパレードしました。韓国の新聞社「東亜日報」は大々的に力道山歓迎の記事を書き立てました。韓国では、首相、文部大臣、KCIA長官らと、会見が持たれ、親類のひとびととも再開しました。・・・・が、いちばん会いたい、尊敬する兄とは、38度線によって会えませんでした。力道山は、家族を引き裂いた「38度線」を憎んでいました。人を罵倒するとき、きまって吐いたのは「この共産党野郎」という言葉でした。韓国では、南北を分けるバンムンジョン(板門店)にも行きました。真冬の冷たい風が、吹き抜ける中で、力道山は38度線の前で、何を思ったか、いきなりオーバーを脱ぎ捨てました。背広もネクタイも、ワイシャツも脱ぎ捨てると、上半身裸になりました。国境を守る兵士たちが何事かと緊張しました。
力道山は、故郷に向かい、両腕を天に突き上げて叫んだ。「うおーっ」・・・三十八度線の山々に、彼の声は、どこまでもこだました。力道山に同行して韓国に行った、吉村氏は、彼の背後で一部始終を目撃しました。「両腕を突き上げて、叫んだ瞬間、力道山に向かって、国境の両側から一斉にカメラのフラッシュがたかれたんです。引き裂かれた故郷の現場にたって、こみ上げてくるものを抑えることができなかったんでしょうね。わたしにはあのさけびは、おにいさん!と言っているように思えて、仕方がありませんでした。」力道山は以後、二度と故郷の土を踏むことはありませんでした。
私たちは、日本の英雄・力道山について何を知っているのでしょうか。日本人に、勇気と自信をプレゼントしてくれた男、プロレス界のヒーロー、空手チョップで外人プロレスラーをやっつけた男、アントニオ猪木を育てた男、ある日突然、けんかをして刺され、運悪く命を落とした男、ではないしょうか。日本の植民地、朝鮮から言葉たくみに日本に連れてこられ、学歴もなく、金持ちになることを夢見、仕事には厳しい姿勢を貫いた男ではないでしょうか。
力道山がクリスチャンだったかどうかはよく知りません。記憶すべきは、彼が朝鮮と日本で、1963年12月15日に亡くなるまでの39年の生涯を精一杯生き切ったということです。彼の遺志は、後輩のアントニオ猪木に引き継がれ、彼は20年間で、33回、北朝鮮を訪れています。1995年4月28・29日アントニオ猪木率いる新日本プロレスは北朝鮮・平城で「平和のための平城国際体育・文化祝典」を開催、2日間で延べ38万人の観衆を動員しました。
猪木氏は北朝鮮の幹部たちと頻繁に接触して同国と日本の橋渡し役となる気があります。彼は、北朝鮮の労働者を日本に受け入れるべきだ、北朝鮮が経済成長する可能性についても語っておられます。
(了)社会的福音のお話をしたいと思います。
社会的福音と福音はコインの両面です。しかし、福音派の人たちは、社会的福音についてはあまりよく知らないのです。社会的福音について話をしたいと思います。福音は英語では、ゴスペル(グッドニュース)といいます。わかり易く言えば、良き知らせという意味です。社会的福音は、英語ではソーシャルゴスペルです。
社会的福音とは、①貧困、②飢餓、③ジェンダー④環境問題、などと格闘している多くの方々が世界中におられ、この重圧から解放されることを願う人にたいして、問題の解決を告げることです。
こうした社会問題と取り組んだ人物として、日本では、賀川豊彦の名前はよく知られています。彼の著作の「死線を超えて」を読まれた方は少なくはないはずです。キリスト教における博愛の精神を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高く、戦前は、現代の「三大聖人」として「カガワ、ガンジー、シュヴァイツァー」と称されました。茅ヶ崎の平和学園の創始者でもあります。
アメリカでは、ウォルター・アウシェンブシュがよく知られています。彼は、ニューヨークのスラム街にある教会で11年間牧会し、神学校で教えた後、『キリスト教と社会的危機』を出版し、社会的福音の指導者となりました。彼は、「宗教における力は、ただ人々を新しく神にとらえていただくという偉大な基本的願望によってくる」として、この観点から当時の経済問題を取り上げたのです。彼の指摘のいくつかをあげると、①競争社会の危険性です。人は「必死になって争う」法則のとりこになる時、友愛を否定し、利己心や貪欲を野放しにします。これはキリスト教社会秩序の基本を裏切り、人を、本能中心の低次元な動物に落としてしまいます。
②利己心と結果だけを求める功利的な貪欲が、食品などの品質低下、偽りの広告、不道徳な消費生活を招く現実に着目しました。利潤の追求だけに専念するのは精神の堕落にほかなりません。利潤追求もまた危険です。「キリスト教が決して主張しない拝金主義を生み出すからです。
このような現実に対抗し得るものとして、アウシェンブシュが寄りかかったのが、ドイツの自由主義・神学者A.B.リッチェルの「神の国論」でした。アウシェンブシュはバプテスト派の牧師でしたが、神学的には自由主義神学に頼らざるを得なかったのです。「神の国の実現を目指して」は、社会的福音の牧師たちの、合言葉となっていったのです。
社会的問題とは何か。わたしたちはSDGsでそのことを知っています。SDGsとは、国連が定めた、2030年までに解決しなければならない17の共通目標のことで、SDGsが掲げる標語は誰一人取り残さないです。17の目標を達成しない限り、地球を存続し持続的に開発していくことは困難になります。17の目標とは、「①貧困」「②飢餓」「③健康と福祉」「④ジェンダー平等」「⑤安全な水と衛生」「⑦クリーンエネルギー」「⑧良い仕事」「⑨イノベーション」「⑩ゼロ不平等」「⑪都市と居住」「⑫生産と消費」「⑬気候変動」「⑭海の生物多様性」「⑮陸の生物多様性」「⑯平和」「⑰ナイスパートナーシップ」です。これらが社会的課題です。私たちは、17の目標の一つでも実現するために、少しでも努力を重ねることが求められているのです。冒頭で、国連が定めたと申しました。実は神が定めた目標と言いかえることができます。
ルカによる福音書の4章には、会堂の中でお立ちになっておられるイエスに対して、聖書が手渡された。それは、預言者イザヤの書で、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。『わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために』。
ここで語られたイザヤの言葉は、実は、イエス様の役割について語られているのです。貧困問題に取り組みなさいと神はイエスさまに語られているのです。同様なことは、ジェンダーについても言われています。本日は、社会的福音の実例として、3人の人物たちについて、見ていきたいと思います。一人は「姦淫の女」、2番目は貧困から抜け出るために日本に来た男、3番目は「サマリヤの女」です。少し長いですが辛抱してお読みください。
ジェンダー問題の例は、ヨハネの福音書 8章1節から出ています。
イエスはオリーブ山に行かれた。
そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。」
律法学者とパリサイ人は、姦淫の罪は、石打の刑罰だと決めておりました。イエスを試すため、かれのまえに姦淫の女を引き連れてきました。彼女は、イエス様のほほえみを見て、はっきりと知ったのです。このお方は、見えない慣習とか伝統の鎖で人間を縛る世の宗教家や道徳家とは違う、また自己の狭い論理の世界の中で、筋を通すことに満足し、それで人を裁くことを使命と考えているような心の狭い学者や鼻持ちならない正義漢ではない、このお方は、わたしの全てを見通されている、わたしという女をすっかりご存じの上で、受け入れて下さっている、わたしは愛されている、そう、愛だ。だがそれは、これまで接してきた男たちの愛とは全く違う。彼女の心には、人びとの前にさらされていた時の恥ずかしさとは異なった恥じらいが、そして喜びがこみ上げ、どっと熱いものがあふれてきました。イエス様のほほえみは、彼女にとって、これまで見失っていた人間性の息吹く世界へとはばたく力、泥沼の中から彼女を解放して新しく自由に生きさせる力だったのです。
聖書の話を一つ持ってきました。
ここで、ある一人の男に話題を転じてみましょう。その人は日本統治下の朝鮮で生まれ、日本に移民し、日本では相撲とプロレスで大活躍し、39歳の若さで亡くなった人物、金 信格( キム・シルラク )です。日本では力道山と名乗りました。敗戦後、意気消沈する日本人に勇気と自信を取り戻させた男でした。
日本の敗戦後、朝鮮では朝鮮戦争がおこりました。日本の統治下で、朝鮮人は日本に強制徴用され、炭鉱労働者、土木工事労働者などで、こき使われました。力道山は、14歳まで、シルムという朝鮮相撲の力士でしたが、日本の警官によって、強制的に、日本に連れてこられ、1940年、二所ノ関部屋に入れられました。日本にいた時の戸籍上の日本名は百田光浩です。1949年の5月には関脇に昇進しました。
1950年の5月場所を最後に引退・廃業し、プロレスラーに転向しました。力道山にとっては、日本も生まれ故郷の朝鮮も、同じ祖国だったのです。孤軍奮闘と言いますが、彼は彼なりに全力投球したのです。力道山は、1942年と1945年の2度朝鮮に戻っていますが、3度目に戻った時には、日本の敗戦後で、北朝鮮には戻れませんでした。
彼は日本に行く前にすでに結婚しており、北朝鮮で生まれた金英淑の存在は日本人には秘密でした。彼女は、17歳の時日本に行き、新潟港で父親と対面しています。娘はその時の様子をこう話しています。『私には入国の許可が出ていないので、上陸はせず、船中で父と会いました。私はその頃、バスケットのナショナルチームの一員でしたので、64年の東京オリンピックの時、ぜひまた会おうと、父は言いました。』力道山は娘に対して、東京オリンピックでは、共産圏の選手団の面倒を全部見てやる、と話したそうです。力道山が日本に行ってしまった後の金一家の生活は、貧しいものでしたが、食べていくことはできました。金英淑は、小学校の三年生の頃から背が高く、運動神経も人並み外れてよく、周りから注目されました。本当は絵をかくのが好きで、将来は画家になりたかったものの、力道山の娘として、また運動能力の面でも知られた存在で、バスケットボールのナショナルチームの選手として活躍しました。その後体育大学に進みましたが、ちょうど彼女が大学に上がる少し前に、力道山と新潟港で再開したのです。
力道山は、自分の娘のみならず、新潟港から引き揚げ船に乗り、祖国へ帰っていく同胞の見送りに、時間の許す限り、必ず新潟港に行っていたそうです。力道山は誰にも知られず、真夜中一人車を飛ばし、新潟港の陰で涙を流しながら、遠くから同胞たちに別れを告げたそうです。遠い祖国からはるばるやってきた娘と再会した時、激情家の力道山は、少なくとも、その言い伝え以上に慟哭したに違いありません。
力道山は1963年、日本航空の国際線スチュワーデス、田中敬子と婚約しました。日本人にとってだけでなく、朝鮮半島にすむ人々にとっても祖国の英雄である力道山には、韓国訪問の話が何度も来ていました。しかし、その都度、力道山は断り続けました。自分の出生を、隠し続けなければならないからでした。韓国に行ったことが公になれば、「日本の英雄が実は日本人ではなかったことがおおやけになり、本人がここまで盛り立ててきたプロレスの人気が落ちてしまう」と考えたのです。
力道山は側近に、「韓国行きの話があるんだ。俺はあまり気が進まないんだが…・。俺が韓国に行けば、新聞にはおそらく、力道山故郷に錦を飾る、なんて書かれるだろうな。俺は人気が落ちるのは構わないんだ。ただ、ファンの子供たちが力道山が持っているイメージが、狂うようなことがあったら困る。・・・・」と相談しました。その時側近は「そんなこと、どうってことないでしょう。たとえ百人の子供のうち、五十人が離れても、力道山の生き方を見て、やっぱり立派な人、強い人と思い直せば、きっとついてきますよ。」と言いました。
力道山は肚をきめました。「そうか、わかった。それじゃ、お前のいうことを聞いて、韓国に行こう」ただし、韓国行きは、極秘とされました。関係者には、箝口例が敷かれました。日本出発は、婚約発表をした翌日の1月8日でした。韓国では力道山は、国賓級の待遇を受けました。ジープが日韓両国の国旗を掲げて先導していく中を、力道山はシボレーのオープンカーに乗って、ソウル市内をパレードしました。韓国の新聞社「東亜日報」は大々的に力道山歓迎の記事を書き立てました。韓国では、首相、文部大臣、KCIA長官らと、会見が持たれ、親類のひとびととも再開しました。・・・・が、いちばん会いたい、尊敬する兄とは、38度線によって会えませんでした。力道山は、家族を引き裂いた「38度線」を憎んでいました。人を罵倒するとき、きまって吐いたのは「この共産党野郎」という言葉でした。韓国では、南北を分けるバンムンジョン(板門店)にも行きました。真冬の冷たい風が、吹き抜ける中で、力道山は38度線の前で、何を思ったか、いきなりオーバーを脱ぎ捨てました。背広もネクタイも、ワイシャツも脱ぎ捨てると、上半身裸になりました。国境を守る兵士たちが何事かと緊張しました。
力道山は、故郷に向かい、両腕を天に突き上げて叫んだ。「うおーっ」・・・三十八度線の山々に、彼の声は、どこまでもこだました。力道山に同行して韓国に行った、吉村氏は、彼の背後で一部始終を目撃しました。「両腕を突き上げて、叫んだ瞬間、力道山に向かって、国境の両側から一斉にカメラのフラッシュがたかれたんです。引き裂かれた故郷の現場にたって、こみ上げてくるものを抑えることができなかったんでしょうね。わたしにはあのさけびは、おにいさん!と言っているように思えて、仕方がありませんでした。」力道山は以後、二度と故郷の土を踏むことはありませんでした。
私たちは、日本の英雄・力道山について何を知っているのでしょうか。日本人に、勇気と自信をプレゼントしてくれた男、プロレス界のヒーロー、空手チョップで外人プロレスラーをやっつけた男、アントニオ猪木を育てた男、ある日突然、けんかをして刺され、運悪く命を落とした男、ではないしょうか。日本の植民地、朝鮮から言葉たくみに日本に連れてこられ、学歴もなく、金持ちになることを夢見、仕事には厳しい姿勢を貫いた男ではないでしょうか。
力道山がクリスチャンだったかどうかはよく知りません。記憶すべきは、彼が朝鮮と日本で、1963年12月15日に亡くなるまでの39年の生涯を精一杯生き切ったということです。彼の遺志は、後輩のアントニオ猪木に引き継がれ、彼は20年間で、33回、北朝鮮を訪れています。1995年4月28・29日アントニオ猪木率いる新日本プロレスは北朝鮮・平城で「平和のための平城国際体育・文化祝典」を開催、2日間で延べ38万人の観衆を動員しました。
猪木氏は北朝鮮の幹部たちと頻繁に接触して同国と日本の橋渡し役となる気があります。彼は、北朝鮮の労働者を日本に受け入れるべきだ、北朝鮮が経済成長する可能性についても語っておられます。
(了)社会的福音のお話をしたいと思います。
社会的福音と福音はコインの両面です。しかし、福音派の人たちは、社会的福音についてはあまりよく知らないのです。社会的福音について話をしたいと思います。福音は英語では、ゴスペル(グッドニュース)といいます。わかり易く言えば、良き知らせという意味です。社会的福音は、英語ではソーシャルゴスペルです。
社会的福音とは、①貧困、②飢餓、③ジェンダー④環境問題、などと格闘している多くの方々が世界中におられ、この重圧から解放されることを願う人にたいして、問題の解決を告げることです。
こうした社会問題と取り組んだ人物として、日本では、賀川豊彦の名前はよく知られています。彼の著作の「死線を超えて」を読まれた方は少なくはないはずです。キリスト教における博愛の精神を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高く、戦前は、現代の「三大聖人」として「カガワ、ガンジー、シュヴァイツァー」と称されました。茅ヶ崎の平和学園の創始者でもあります。
アメリカでは、ウォルター・アウシェンブシュがよく知られています。彼は、ニューヨークのスラム街にある教会で11年間牧会し、神学校で教えた後、『キリスト教と社会的危機』を出版し、社会的福音の指導者となりました。彼は、「宗教における力は、ただ人々を新しく神にとらえていただくという偉大な基本的願望によってくる」として、この観点から当時の経済問題を取り上げたのです。彼の指摘のいくつかをあげると、①競争社会の危険性です。人は「必死になって争う」法則のとりこになる時、友愛を否定し、利己心や貪欲を野放しにします。これはキリスト教社会秩序の基本を裏切り、人を、本能中心の低次元な動物に落としてしまいます。
②利己心と結果だけを求める功利的な貪欲が、食品などの品質低下、偽りの広告、不道徳な消費生活を招く現実に着目しました。利潤の追求だけに専念するのは精神の堕落にほかなりません。利潤追求もまた危険です。「キリスト教が決して主張しない拝金主義を生み出すからです。
このような現実に対抗し得るものとして、アウシェンブシュが寄りかかったのが、ドイツの自由主義・神学者A.B.リッチェルの「神の国論」でした。アウシェンブシュはバプテスト派の牧師でしたが、神学的には自由主義神学に頼らざるを得なかったのです。「神の国の実現を目指して」は、社会的福音の牧師たちの、合言葉となっていったのです。
社会的問題とは何か。わたしたちはSDGsでそのことを知っています。SDGsとは、国連が定めた、2030年までに解決しなければならない17の共通目標のことで、SDGsが掲げる標語は誰一人取り残さないです。17の目標を達成しない限り、地球を存続し持続的に開発していくことは困難になります。17の目標とは、「①貧困」「②飢餓」「③健康と福祉」「④ジェンダー平等」「⑤安全な水と衛生」「⑦クリーンエネルギー」「⑧良い仕事」「⑨イノベーション」「⑩ゼロ不平等」「⑪都市と居住」「⑫生産と消費」「⑬気候変動」「⑭海の生物多様性」「⑮陸の生物多様性」「⑯平和」「⑰ナイスパートナーシップ」です。これらが社会的課題です。私たちは、17の目標の一つでも実現するために、少しでも努力を重ねることが求められているのです。冒頭で、国連が定めたと申しました。実は神が定めた目標と言いかえることができます。
ルカによる福音書の4章には、会堂の中でお立ちになっておられるイエスに対して、聖書が手渡された。それは、預言者イザヤの書で、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。『わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために』。
ここで語られたイザヤの言葉は、実は、イエス様の役割について語られているのです。貧困問題に取り組みなさいと神はイエスさまに語られているのです。同様なことは、ジェンダーについても言われています。本日は、社会的福音の実例として、3人の人物たちについて、見ていきたいと思います。一人は「姦淫の女」、2番目は貧困から抜け出るために日本に来た男、3番目は「サマリヤの女」です。少し長いですが辛抱してお読みください。
ジェンダー問題の例は、ヨハネの福音書 8章1節から出ています。
イエスはオリーブ山に行かれた。
そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。」
律法学者とパリサイ人は、姦淫の罪は、石打の刑罰だと決めておりました。イエスを試すため、かれのまえに姦淫の女を引き連れてきました。彼女は、イエス様のほほえみを見て、はっきりと知ったのです。このお方は、見えない慣習とか伝統の鎖で人間を縛る世の宗教家や道徳家とは違う、また自己の狭い論理の世界の中で、筋を通すことに満足し、それで人を裁くことを使命と考えているような心の狭い学者や鼻持ちならない正義漢ではない、このお方は、わたしの全てを見通されている、わたしという女をすっかりご存じの上で、受け入れて下さっている、わたしは愛されている、そう、愛だ。だがそれは、これまで接してきた男たちの愛とは全く違う。彼女の心には、人びとの前にさらされていた時の恥ずかしさとは異なった恥じらいが、そして喜びがこみ上げ、どっと熱いものがあふれてきました。イエス様のほほえみは、彼女にとって、これまで見失っていた人間性の息吹く世界へとはばたく力、泥沼の中から彼女を解放して新しく自由に生きさせる力だったのです。
聖書の話を一つ持ってきました。
ここで、ある一人の男に話題を転じてみましょう。その人は日本統治下の朝鮮で生まれ、日本に移民し、日本では相撲とプロレスで大活躍し、39歳の若さで亡くなった人物、金 信格( キム・シルラク )です。日本では力道山と名乗りました。敗戦後、意気消沈する日本人に勇気と自信を取り戻させた男でした。
日本の敗戦後、朝鮮では朝鮮戦争がおこりました。日本の統治下で、朝鮮人は日本に強制徴用され、炭鉱労働者、土木工事労働者などで、こき使われました。力道山は、14歳まで、シルムという朝鮮相撲の力士でしたが、日本の警官によって、強制的に、日本に連れてこられ、1940年、二所ノ関部屋に入れられました。日本にいた時の戸籍上の日本名は百田光浩です。1949年の5月には関脇に昇進しました。
1950年の5月場所を最後に引退・廃業し、プロレスラーに転向しました。力道山にとっては、日本も生まれ故郷の朝鮮も、同じ祖国だったのです。孤軍奮闘と言いますが、彼は彼なりに全力投球したのです。力道山は、1942年と1945年の2度朝鮮に戻っていますが、3度目に戻った時には、日本の敗戦後で、北朝鮮には戻れませんでした。
彼は日本に行く前にすでに結婚しており、北朝鮮で生まれた金英淑の存在は日本人には秘密でした。彼女は、17歳の時日本に行き、新潟港で父親と対面しています。娘はその時の様子をこう話しています。『私には入国の許可が出ていないので、上陸はせず、船中で父と会いました。私はその頃、バスケットのナショナルチームの一員でしたので、64年の東京オリンピックの時、ぜひまた会おうと、父は言いました。』力道山は娘に対して、東京オリンピックでは、共産圏の選手団の面倒を全部見てやる、と話したそうです。力道山が日本に行ってしまった後の金一家の生活は、貧しいものでしたが、食べていくことはできました。金英淑は、小学校の三年生の頃から背が高く、運動神経も人並み外れてよく、周りから注目されました。本当は絵をかくのが好きで、将来は画家になりたかったものの、力道山の娘として、また運動能力の面でも知られた存在で、バスケットボールのナショナルチームの選手として活躍しました。その後体育大学に進みましたが、ちょうど彼女が大学に上がる少し前に、力道山と新潟港で再開したのです。
力道山は、自分の娘のみならず、新潟港から引き揚げ船に乗り、祖国へ帰っていく同胞の見送りに、時間の許す限り、必ず新潟港に行っていたそうです。力道山は誰にも知られず、真夜中一人車を飛ばし、新潟港の陰で涙を流しながら、遠くから同胞たちに別れを告げたそうです。遠い祖国からはるばるやってきた娘と再会した時、激情家の力道山は、少なくとも、その言い伝え以上に慟哭したに違いありません。
力道山は1963年、日本航空の国際線スチュワーデス、田中敬子と婚約しました。日本人にとってだけでなく、朝鮮半島にすむ人々にとっても祖国の英雄である力道山には、韓国訪問の話が何度も来ていました。しかし、その都度、力道山は断り続けました。自分の出生を、隠し続けなければならないからでした。韓国に行ったことが公になれば、「日本の英雄が実は日本人ではなかったことがおおやけになり、本人がここまで盛り立ててきたプロレスの人気が落ちてしまう」と考えたのです。
力道山は側近に、「韓国行きの話があるんだ。俺はあまり気が進まないんだが…・。俺が韓国に行けば、新聞にはおそらく、力道山故郷に錦を飾る、なんて書かれるだろうな。俺は人気が落ちるのは構わないんだ。ただ、ファンの子供たちが力道山が持っているイメージが、狂うようなことがあったら困る。・・・・」と相談しました。その時側近は「そんなこと、どうってことないでしょう。たとえ百人の子供のうち、五十人が離れても、力道山の生き方を見て、やっぱり立派な人、強い人と思い直せば、きっとついてきますよ。」と言いました。
力道山は肚をきめました。「そうか、わかった。それじゃ、お前のいうことを聞いて、韓国に行こう」ただし、韓国行きは、極秘とされました。関係者には、箝口例が敷かれました。日本出発は、婚約発表をした翌日の1月8日でした。韓国では力道山は、国賓級の待遇を受けました。ジープが日韓両国の国旗を掲げて先導していく中を、力道山はシボレーのオープンカーに乗って、ソウル市内をパレードしました。韓国の新聞社「東亜日報」は大々的に力道山歓迎の記事を書き立てました。韓国では、首相、文部大臣、KCIA長官らと、会見が持たれ、親類のひとびととも再開しました。・・・・が、いちばん会いたい、尊敬する兄とは、38度線によって会えませんでした。力道山は、家族を引き裂いた「38度線」を憎んでいました。人を罵倒するとき、きまって吐いたのは「この共産党野郎」という言葉でした。韓国では、南北を分けるバンムンジョン(板門店)にも行きました。真冬の冷たい風が、吹き抜ける中で、力道山は38度線の前で、何を思ったか、いきなりオーバーを脱ぎ捨てました。背広もネクタイも、ワイシャツも脱ぎ捨てると、上半身裸になりました。国境を守る兵士たちが何事かと緊張しました。
力道山は、故郷に向かい、両腕を天に突き上げて叫んだ。「うおーっ」・・・三十八度線の山々に、彼の声は、どこまでもこだました。力道山に同行して韓国に行った、吉村氏は、彼の背後で一部始終を目撃しました。「両腕を突き上げて、叫んだ瞬間、力道山に向かって、国境の両側から一斉にカメラのフラッシュがたかれたんです。引き裂かれた故郷の現場にたって、こみ上げてくるものを抑えることができなかったんでしょうね。わたしにはあのさけびは、おにいさん!と言っているように思えて、仕方がありませんでした。」力道山は以後、二度と故郷の土を踏むことはありませんでした。
私たちは、日本の英雄・力道山について何を知っているのでしょうか。日本人に、勇気と自信をプレゼントしてくれた男、プロレス界のヒーロー、空手チョップで外人プロレスラーをやっつけた男、アントニオ猪木を育てた男、ある日突然、けんかをして刺され、運悪く命を落とした男、ではないしょうか。日本の植民地、朝鮮から言葉たくみに日本に連れてこられ、学歴もなく、金持ちになることを夢見、仕事には厳しい姿勢を貫いた男ではないでしょうか。
力道山がクリスチャンだったかどうかはよく知りません。記憶すべきは、彼が朝鮮と日本で、1963年12月15日に亡くなるまでの39年の生涯を精一杯生き切ったということです。彼の遺志は、後輩のアントニオ猪木に引き継がれ、彼は20年間で、33回、北朝鮮を訪れています。1995年4月28・29日アントニオ猪木率いる新日本プロレスは北朝鮮・平城で「平和のための平城国際体育・文化祝典」を開催、2日間で延べ38万人の観衆を動員しました。
猪木氏は北朝鮮の幹部たちと頻繁に接触して同国と日本の橋渡し役となる気があります。彼は、北朝鮮の労働者を日本に受け入れるべきだ、北朝鮮が経済成長する可能性についても語っておられます。
(了)
社会的福音と福音はコインの両面です。しかし、福音派の人たちは、社会的福音についてはあまりよく知らないのです。福音は英語では、ゴスペル(グッドニュース)といいます。わかり易く言えば、良き知らせという意味です。社会的福音は、英語ではソーシャルゴスペルです。
社会的福音とは、①貧困、②飢餓、③ジェンダー④環境問題、などと格闘している多くの方々が世界中におられ、この重圧から解放されることを願う人にたいして、問題の解決を告げることです。
こうした社会問題と取り組んだ人物として、日本では、賀川豊彦の名前はよく知られています。彼の著作の「死線を超えて」を読まれた方は少なくはないはずです。キリスト教における博愛の精神を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高く、戦前は、現代の「三大聖人」として「カガワ、ガンジー、シュヴァイツァー」と称されました。茅ヶ崎の平和学園の創始者でもあります。
アメリカでは、ウォルター・アウシェンブシュがよく知られています。彼は、ニューヨークのスラム街にある教会で11年間牧会し、神学校で教えた後、『キリスト教と社会的危機』を出版し、社会的福音の指導者となりました。彼は、「宗教における力は、ただ人々を新しく神にとらえていただくという偉大な基本的願望によってくる」として、この観点から当時の経済問題を取り上げたのです。彼の指摘のいくつかをあげると、①競争社会の危険性です。人は「必死になって争う」法則のとりこになる時、友愛を否定し、利己心や貪欲を野放しにします。これはキリスト教社会秩序の基本を裏切り、人を、本能中心の低次元な動物に落としてしまいます。
②利己心と結果だけを求める功利的な貪欲が、食品などの品質低下、偽りの広告、不道徳な消費生活を招く現実にも着目しました。利潤の追求だけに専念するのは精神の堕落にほかなりません。利潤追求もまた危険です。「キリスト教が決して主張しない拝金主義を生み出すからです。
このような現実に対抗し得るものとして、アウシェンブシュが寄りかかったのが、ドイツの自由主義・神学者A.B.リッチェルの「神の国論」でした。アウシェンブシュはバプテスト派の牧師でしたが、神学的には自由主義神学に頼らざるを得なかったのです。「神の国の実現を目指して」は、社会的福音の牧師たちの、合言葉となっていったのです。
社会的問題とは何か。わたしたちはSDGsでそのことを知っています。SDGsとは、国連が定めた、2030年までに解決しなければならない17の社会的目標のことで、SDGsが掲げる標語は誰一人取り残さないです。17の目標を達成しない限り、地球を存続し持続的に開発していくことは困難になります。17の目標とは、「①貧困」「②飢餓」「③健康と福祉」「④ジェンダー平等」「⑤安全な水と衛生」「⑦クリーンエネルギー」「⑧良い仕事」「⑨イノベーション」「⑩ゼロ不平等」「⑪都市と居住」「⑫生産と消費」「⑬気候変動」「⑭海の生物多様性」「⑮陸の生物多様性」「⑯平和」「⑰ナイスパートナーシップ」です。これらが社会的課題です。私たちは、17の目標の一つでも実現するために、少しでも努力を重ねることが求められているのです。冒頭で、国連が定めたと申しました。実は神が定めた目標と言いかえることができます。
ルカによる福音書の4章には、会堂の中でお立ちになっておられるイエスに対して、聖書が手渡された。それは、預言者イザヤの書で、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。『わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために』。
ここで語られたイザヤの言葉は、実は、イエス様の役割について語られているのです。貧困問題に取り組みなさいと神はイエスさまに語られているのです。同様なことは、ジェンダーについても言われています。本日は、社会的福音の実例として、2人の人物たちについて、見ていきたいと思います。一人は「姦淫の女」、2番目は貧困から抜け出るために日本に来た男です。少し長いですが辛抱してお読みください。
ジェンダー問題の例は、ヨハネの福音書 8章1節から出ています。
イエスはオリーブ山に行かれた。
そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。」
律法学者とパリサイ人は、姦淫の罪は、石打の刑罰だと決めておりました。イエスを試すため、かれのまえに姦淫の女を引き連れてきました。彼女は、イエス様のほほえみを見て、はっきりと知ったのです。このお方は、見えない慣習とか伝統の鎖で人間を縛る世の宗教家や道徳家とは違う、また自己の狭い論理の世界の中で、筋を通すことに満足し、それで人を裁くことを使命と考えているような心の狭い学者や鼻持ちならない正義漢ではない、このお方は、わたしの全てを見通されている、わたしという女をすっかりご存じの上で、受け入れて下さっている、わたしは愛されている、そう、愛だ。だがそれは、これまで接してきた男たちの愛とは全く違う。彼女の心には、人びとの前にさらされていた時の恥ずかしさとは異なった恥じらいが、そして喜びがこみ上げ、どっと熱いものがあふれてきました。イエス様のほほえみは、彼女にとって、これまで見失っていた人間性の息吹く世界へとはばたく力、泥沼の中から彼女を解放して新しく自由に生きさせる力だったのです。
聖書の話を一つ持ってきました。
ここで、ある一人の男に話題を転じてみましょう。その人は日本統治下の朝鮮で生まれ、日本に移民し、日本では相撲とプロレスで大活躍し、39歳の若さで亡くなった人物、金 信格( キム・シルラク )です。日本では力道山と名乗りました。敗戦後、意気消沈する日本人に勇気と自信を取り戻させた男でした。
日本の敗戦後、朝鮮では朝鮮戦争がおこりました。日本の統治下で、朝鮮人は日本に強制徴用され、炭鉱労働者、土木工事労働者などで、こき使われました。力道山は、14歳まで、シルムという朝鮮相撲の力士でしたが、日本の警官によって、強制的に、日本に連れてこられ、1940年、二所ノ関部屋に入れられました。日本にいた時の戸籍上の日本名は百田光浩です。1949年の5月には関脇に昇進しました。
1950年の5月場所を最後に引退・廃業し、プロレスラーに転向しました。力道山にとっては、日本も生まれ故郷の朝鮮も、同じ祖国だったのです。孤軍奮闘と言いますが、彼は彼なりに全力投球したのです。力道山は、1942年と1945年の2度朝鮮に戻っていますが、3度目に戻った時には、日本の敗戦後で、北朝鮮には戻れませんでした。
彼は日本に行く前にすでに結婚しており、北朝鮮で生まれた金英淑の存在は日本人には秘密でした。彼女は、17歳の時日本に行き、新潟港で父親と対面しています。娘はその時の様子をこう話しています。『私には入国の許可が出ていないので、上陸はせず、船中で父と会いました。私はその頃、バスケットのナショナルチームの一員でしたので、64年の東京オリンピックの時、ぜひまた会おうと、父は言いました。』力道山は娘に対して、東京オリンピックでは、共産圏の選手団の面倒を全部見てやる、と話したそうです。力道山が日本に行ってしまった後の金一家の生活は、貧しいものでしたが、食べていくことはできました。金英淑は、小学校の三年生の頃から背が高く、運動神経も人並み外れてよく、周りから注目されました。本当は絵をかくのが好きで、将来は画家になりたかったものの、力道山の娘として、また運動能力の面でも知られた存在で、バスケットボールのナショナルチームの選手として活躍しました。その後体育大学に進みましたが、ちょうど彼女が大学に上がる少し前に、力道山と新潟港で再開したのです。
力道山は、自分の娘のみならず、新潟港から引き揚げ船に乗り、祖国へ帰っていく同胞の見送りに、時間の許す限り、必ず新潟港に行っていたそうです。力道山は誰にも知られず、真夜中一人車を飛ばし、新潟港の陰で涙を流しながら、遠くから同胞たちに別れを告げたそうです。遠い祖国からはるばるやってきた娘と再会した時、激情家の力道山は、少なくとも、その言い伝え以上に慟哭したに違いありません。
力道山は1963年、日本航空の国際線スチュワーデス、田中敬子と婚約しました。日本人にとってだけでなく、朝鮮半島にすむ人々にとっても祖国の英雄である力道山には、韓国訪問の話が何度も来ていました。しかし、その都度、力道山は断り続けました。自分の出生を、隠し続けなければならないからでした。韓国に行ったことが公になれば、「日本の英雄が実は日本人ではなかったことがおおやけになり、本人がここまで盛り立ててきたプロレスの人気が落ちてしまう」と考えたのです。
力道山は側近に、「韓国行きの話があるんだ。俺はあまり気が進まないんだが…・。俺が韓国に行けば、新聞にはおそらく、力道山故郷に錦を飾る、なんて書かれるだろうな。俺は人気が落ちるのは構わないんだ。ただ、ファンの子供たちが力道山が持っているイメージが、狂うようなことがあったら困る。・・・・」と相談しました。その時側近は「そんなこと、どうってことないでしょう。たとえ百人の子供のうち、五十人が離れても、力道山の生き方を見て、やっぱり立派な人、強い人と思い直せば、きっとついてきますよ。」と言いました。
力道山は肚をきめました。「そうか、わかった。それじゃ、お前のいうことを聞いて、韓国に行こう」ただし、韓国行きは、極秘とされました。関係者には、箝口例が敷かれました。日本出発は、婚約発表をした翌日の1月8日でした。韓国では力道山は、国賓級の待遇を受けました。ジープが日韓両国の国旗を掲げて先導していく中を、力道山はシボレーのオープンカーに乗って、ソウル市内をパレードしました。韓国の新聞社「東亜日報」は大々的に力道山歓迎の記事を書き立てました。韓国では、首相、文部大臣、KCIA長官らと、会見が持たれ、親類のひとびととも再開しました。・・・・が、いちばん会いたい、尊敬する兄とは、38度線によって会えませんでした。力道山は、家族を引き裂いた「38度線」を憎んでいました。人を罵倒するとき、きまって吐いたのは「この共産党野郎」という言葉でした。韓国では、南北を分けるバンムンジョン(板門店)にも行きました。真冬の冷たい風が、吹き抜ける中で、力道山は38度線の前で、何を思ったか、いきなりオーバーを脱ぎ捨てました。背広もネクタイも、ワイシャツも脱ぎ捨てると、上半身裸になりました。国境を守る兵士たちが何事かと緊張しました。
力道山は、故郷に向かい、両腕を天に突き上げて叫んだ。「うおーっ」・・・三十八度線の山々に、彼の声は、どこまでもこだました。力道山に同行して韓国に行った、吉村氏は、彼の背後で一部始終を目撃しました。「両腕を突き上げて、叫んだ瞬間、力道山に向かって、国境の両側から一斉にカメラのフラッシュがたかれたんです。引き裂かれた故郷の現場にたって、こみ上げてくるものを抑えることができなかったんでしょうね。わたしにはあのさけびは、おにいさん!と言っているように思えて、仕方がありませんでした。」力道山は以後、二度と故郷の土を踏むことはありませんでした。
私たちは、日本の英雄・力道山について何を知っているのでしょうか。日本人に、勇気と自信をプレゼントしてくれた男、プロレス界のヒーロー、空手チョップで外人プロレスラーをやっつけた男、アントニオ猪木を育てた男、ある日突然、けんかをして刺され、運悪く命を落とした男、ではないしょうか。日本の植民地、朝鮮から言葉たくみに日本に連れてこられ、学歴もなく、金持ちになることを夢見、仕事には厳しい姿勢を貫いた男ではないでしょうか。
力道山がクリスチャンだったかどうかはよく知りません。記憶すべきは、彼が朝鮮と日本で、1963年12月15日に亡くなるまでの39年の生涯を精一杯生き切ったということです。彼の遺志は、後輩のアントニオ猪木に引き継がれ、彼は20年間で、33回、北朝鮮を訪れています。1995年4月28・29日アントニオ猪木率いる新日本プロレスは北朝鮮・平城で「平和のための平城国際体育・文化祝典」を開催、2日間で延べ38万人の観衆を動員しました。
猪木氏は北朝鮮の幹部たちと頻繁に接触して同国と日本の橋渡し役となる気があります。彼は、北朝鮮の労働者を日本に受け入れるべきだ、北朝鮮が経済成長する可能性についても語っておられます。
(了)社会的福音のお話をしたいと思います。
社会的福音と福音はコインの両面です。しかし、福音派の人たちは、社会的福音についてはあまりよく知らないのです。社会的福音について話をしたいと思います。福音は英語では、ゴスペル(グッドニュース)といいます。わかり易く言えば、良き知らせという意味です。社会的福音は、英語ではソーシャルゴスペルです。
社会的福音とは、①貧困、②飢餓、③ジェンダー④環境問題、などと格闘している多くの方々が世界中におられ、この重圧から解放されることを願う人にたいして、問題の解決を告げることです。
こうした社会問題と取り組んだ人物として、日本では、賀川豊彦の名前はよく知られています。彼の著作の「死線を超えて」を読まれた方は少なくはないはずです。キリスト教における博愛の精神を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高く、戦前は、現代の「三大聖人」として「カガワ、ガンジー、シュヴァイツァー」と称されました。茅ヶ崎の平和学園の創始者でもあります。
アメリカでは、ウォルター・アウシェンブシュがよく知られています。彼は、ニューヨークのスラム街にある教会で11年間牧会し、神学校で教えた後、『キリスト教と社会的危機』を出版し、社会的福音の指導者となりました。彼は、「宗教における力は、ただ人々を新しく神にとらえていただくという偉大な基本的願望によってくる」として、この観点から当時の経済問題を取り上げたのです。彼の指摘のいくつかをあげると、①競争社会の危険性です。人は「必死になって争う」法則のとりこになる時、友愛を否定し、利己心や貪欲を野放しにします。これはキリスト教社会秩序の基本を裏切り、人を、本能中心の低次元な動物に落としてしまいます。
②利己心と結果だけを求める功利的な貪欲が、食品などの品質低下、偽りの広告、不道徳な消費生活を招く現実に着目しました。利潤の追求だけに専念するのは精神の堕落にほかなりません。利潤追求もまた危険です。「キリスト教が決して主張しない拝金主義を生み出すからです。
このような現実に対抗し得るものとして、アウシェンブシュが寄りかかったのが、ドイツの自由主義・神学者A.B.リッチェルの「神の国論」でした。アウシェンブシュはバプテスト派の牧師でしたが、神学的には自由主義神学に頼らざるを得なかったのです。「神の国の実現を目指して」は、社会的福音の牧師たちの、合言葉となっていったのです。
社会的問題とは何か。わたしたちはSDGsでそのことを知っています。SDGsとは、国連が定めた、2030年までに解決しなければならない17の共通目標のことで、SDGsが掲げる標語は誰一人取り残さないです。17の目標を達成しない限り、地球を存続し持続的に開発していくことは困難になります。17の目標とは、「①貧困」「②飢餓」「③健康と福祉」「④ジェンダー平等」「⑤安全な水と衛生」「⑦クリーンエネルギー」「⑧良い仕事」「⑨イノベーション」「⑩ゼロ不平等」「⑪都市と居住」「⑫生産と消費」「⑬気候変動」「⑭海の生物多様性」「⑮陸の生物多様性」「⑯平和」「⑰ナイスパートナーシップ」です。これらが社会的課題です。私たちは、17の目標の一つでも実現するために、少しでも努力を重ねることが求められているのです。冒頭で、国連が定めたと申しました。実は神が定めた目標と言いかえることができます。
ルカによる福音書の4章には、会堂の中でお立ちになっておられるイエスに対して、聖書が手渡された。それは、預言者イザヤの書で、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。『わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために』。
ここで語られたイザヤの言葉は、実は、イエス様の役割について語られているのです。貧困問題に取り組みなさいと神はイエスさまに語られているのです。同様なことは、ジェンダーについても言われています。本日は、社会的福音の実例として、3人の人物たちについて、見ていきたいと思います。一人は「姦淫の女」、2番目は貧困から抜け出るために日本に来た男、3番目は「サマリヤの女」です。少し長いですが辛抱してお読みください。
ジェンダー問題の例は、ヨハネの福音書 8章1節から出ています。
イエスはオリーブ山に行かれた。
そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。」
律法学者とパリサイ人は、姦淫の罪は、石打の刑罰だと決めておりました。イエスを試すため、かれのまえに姦淫の女を引き連れてきました。彼女は、イエス様のほほえみを見て、はっきりと知ったのです。このお方は、見えない慣習とか伝統の鎖で人間を縛る世の宗教家や道徳家とは違う、また自己の狭い論理の世界の中で、筋を通すことに満足し、それで人を裁くことを使命と考えているような心の狭い学者や鼻持ちならない正義漢ではない、このお方は、わたしの全てを見通されている、わたしという女をすっかりご存じの上で、受け入れて下さっている、わたしは愛されている、そう、愛だ。だがそれは、これまで接してきた男たちの愛とは全く違う。彼女の心には、人びとの前にさらされていた時の恥ずかしさとは異なった恥じらいが、そして喜びがこみ上げ、どっと熱いものがあふれてきました。イエス様のほほえみは、彼女にとって、これまで見失っていた人間性の息吹く世界へとはばたく力、泥沼の中から彼女を解放して新しく自由に生きさせる力だったのです。
聖書の話を一つ持ってきました。
ここで、ある一人の男に話題を転じてみましょう。その人は日本統治下の朝鮮で生まれ、日本に移民し、日本では相撲とプロレスで大活躍し、39歳の若さで亡くなった人物、金 信格( キム・シルラク )です。日本では力道山と名乗りました。敗戦後、意気消沈する日本人に勇気と自信を取り戻させた男でした。
日本の敗戦後、朝鮮では朝鮮戦争がおこりました。日本の統治下で、朝鮮人は日本に強制徴用され、炭鉱労働者、土木工事労働者などで、こき使われました。力道山は、14歳まで、シルムという朝鮮相撲の力士でしたが、日本の警官によって、強制的に、日本に連れてこられ、1940年、二所ノ関部屋に入れられました。日本にいた時の戸籍上の日本名は百田光浩です。1949年の5月には関脇に昇進しました。
1950年の5月場所を最後に引退・廃業し、プロレスラーに転向しました。力道山にとっては、日本も生まれ故郷の朝鮮も、同じ祖国だったのです。孤軍奮闘と言いますが、彼は彼なりに全力投球したのです。力道山は、1942年と1945年の2度朝鮮に戻っていますが、3度目に戻った時には、日本の敗戦後で、北朝鮮には戻れませんでした。
彼は日本に行く前にすでに結婚しており、北朝鮮で生まれた金英淑の存在は日本人には秘密でした。彼女は、17歳の時日本に行き、新潟港で父親と対面しています。娘はその時の様子をこう話しています。『私には入国の許可が出ていないので、上陸はせず、船中で父と会いました。私はその頃、バスケットのナショナルチームの一員でしたので、64年の東京オリンピックの時、ぜひまた会おうと、父は言いました。』力道山は娘に対して、東京オリンピックでは、共産圏の選手団の面倒を全部見てやる、と話したそうです。力道山が日本に行ってしまった後の金一家の生活は、貧しいものでしたが、食べていくことはできました。金英淑は、小学校の三年生の頃から背が高く、運動神経も人並み外れてよく、周りから注目されました。本当は絵をかくのが好きで、将来は画家になりたかったものの、力道山の娘として、また運動能力の面でも知られた存在で、バスケットボールのナショナルチームの選手として活躍しました。その後体育大学に進みましたが、ちょうど彼女が大学に上がる少し前に、力道山と新潟港で再開したのです。
力道山は、自分の娘のみならず、新潟港から引き揚げ船に乗り、祖国へ帰っていく同胞の見送りに、時間の許す限り、必ず新潟港に行っていたそうです。力道山は誰にも知られず、真夜中一人車を飛ばし、新潟港の陰で涙を流しながら、遠くから同胞たちに別れを告げたそうです。遠い祖国からはるばるやってきた娘と再会した時、激情家の力道山は、少なくとも、その言い伝え以上に慟哭したに違いありません。
力道山は1963年、日本航空の国際線スチュワーデス、田中敬子と婚約しました。日本人にとってだけでなく、朝鮮半島にすむ人々にとっても祖国の英雄である力道山には、韓国訪問の話が何度も来ていました。しかし、その都度、力道山は断り続けました。自分の出生を、隠し続けなければならないからでした。韓国に行ったことが公になれば、「日本の英雄が実は日本人ではなかったことがおおやけになり、本人がここまで盛り立ててきたプロレスの人気が落ちてしまう」と考えたのです。
力道山は側近に、「韓国行きの話があるんだ。俺はあまり気が進まないんだが…・。俺が韓国に行けば、新聞にはおそらく、力道山故郷に錦を飾る、なんて書かれるだろうな。俺は人気が落ちるのは構わないんだ。ただ、ファンの子供たちが力道山が持っているイメージが、狂うようなことがあったら困る。・・・・」と相談しました。その時側近は「そんなこと、どうってことないでしょう。たとえ百人の子供のうち、五十人が離れても、力道山の生き方を見て、やっぱり立派な人、強い人と思い直せば、きっとついてきますよ。」と言いました。
力道山は肚をきめました。「そうか、わかった。それじゃ、お前のいうことを聞いて、韓国に行こう」ただし、韓国行きは、極秘とされました。関係者には、箝口例が敷かれました。日本出発は、婚約発表をした翌日の1月8日でした。韓国では力道山は、国賓級の待遇を受けました。ジープが日韓両国の国旗を掲げて先導していく中を、力道山はシボレーのオープンカーに乗って、ソウル市内をパレードしました。韓国の新聞社「東亜日報」は大々的に力道山歓迎の記事を書き立てました。韓国では、首相、文部大臣、KCIA長官らと、会見が持たれ、親類のひとびととも再開しました。・・・・が、いちばん会いたい、尊敬する兄とは、38度線によって会えませんでした。力道山は、家族を引き裂いた「38度線」を憎んでいました。人を罵倒するとき、きまって吐いたのは「この共産党野郎」という言葉でした。韓国では、南北を分けるバンムンジョン(板門店)にも行きました。真冬の冷たい風が、吹き抜ける中で、力道山は38度線の前で、何を思ったか、いきなりオーバーを脱ぎ捨てました。背広もネクタイも、ワイシャツも脱ぎ捨てると、上半身裸になりました。国境を守る兵士たちが何事かと緊張しました。
力道山は、故郷に向かい、両腕を天に突き上げて叫んだ。「うおーっ」・・・三十八度線の山々に、彼の声は、どこまでもこだました。力道山に同行して韓国に行った、吉村氏は、彼の背後で一部始終を目撃しました。「両腕を突き上げて、叫んだ瞬間、力道山に向かって、国境の両側から一斉にカメラのフラッシュがたかれたんです。引き裂かれた故郷の現場にたって、こみ上げてくるものを抑えることができなかったんでしょうね。わたしにはあのさけびは、おにいさん!と言っているように思えて、仕方がありませんでした。」力道山は以後、二度と故郷の土を踏むことはありませんでした。
私たちは、日本の英雄・力道山について何を知っているのでしょうか。日本人に、勇気と自信をプレゼントしてくれた男、プロレス界のヒーロー、空手チョップで外人プロレスラーをやっつけた男、アントニオ猪木を育てた男、ある日突然、けんかをして刺され、運悪く命を落とした男、ではないしょうか。日本の植民地、朝鮮から言葉たくみに日本に連れてこられ、学歴もなく、金持ちになることを夢見、仕事には厳しい姿勢を貫いた男ではないでしょうか。
力道山がクリスチャンだったかどうかはよく知りません。記憶すべきは、彼が朝鮮と日本で、1963年12月15日に亡くなるまでの39年の生涯を精一杯生き切ったということです。彼の遺志は、後輩のアントニオ猪木に引き継がれ、彼は20年間で、33回、北朝鮮を訪れています。1995年4月28・29日アントニオ猪木率いる新日本プロレスは北朝鮮・平城で「平和のための平城国際体育・文化祝典」を開催、2日間で延べ38万人の観衆を動員しました。
猪木氏は北朝鮮の幹部たちと頻繁に接触して同国と日本の橋渡し役となる気があります。彼は、北朝鮮の労働者を日本に受け入れるべきだ、北朝鮮が経済成長する可能性についても語っておられます。
(了)社会的福音のお話をしたいと思います。
社会的福音と福音はコインの両面です。しかし、福音派の人たちは、社会的福音についてはあまりよく知らないのです。社会的福音について話をしたいと思います。福音は英語では、ゴスペル(グッドニュース)といいます。わかり易く言えば、良き知らせという意味です。社会的福音は、英語ではソーシャルゴスペルです。
社会的福音とは、①貧困、②飢餓、③ジェンダー④環境問題、などと格闘している多くの方々が世界中におられ、この重圧から解放されることを願う人にたいして、問題の解決を告げることです。
こうした社会問題と取り組んだ人物として、日本では、賀川豊彦の名前はよく知られています。彼の著作の「死線を超えて」を読まれた方は少なくはないはずです。キリスト教における博愛の精神を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高く、戦前は、現代の「三大聖人」として「カガワ、ガンジー、シュヴァイツァー」と称されました。茅ヶ崎の平和学園の創始者でもあります。
アメリカでは、ウォルター・アウシェンブシュがよく知られています。彼は、ニューヨークのスラム街にある教会で11年間牧会し、神学校で教えた後、『キリスト教と社会的危機』を出版し、社会的福音の指導者となりました。彼は、「宗教における力は、ただ人々を新しく神にとらえていただくという偉大な基本的願望によってくる」として、この観点から当時の経済問題を取り上げたのです。彼の指摘のいくつかをあげると、①競争社会の危険性です。人は「必死になって争う」法則のとりこになる時、友愛を否定し、利己心や貪欲を野放しにします。これはキリスト教社会秩序の基本を裏切り、人を、本能中心の低次元な動物に落としてしまいます。
②利己心と結果だけを求める功利的な貪欲が、食品などの品質低下、偽りの広告、不道徳な消費生活を招く現実に着目しました。利潤の追求だけに専念するのは精神の堕落にほかなりません。利潤追求もまた危険です。「キリスト教が決して主張しない拝金主義を生み出すからです。
このような現実に対抗し得るものとして、アウシェンブシュが寄りかかったのが、ドイツの自由主義・神学者A.B.リッチェルの「神の国論」でした。アウシェンブシュはバプテスト派の牧師でしたが、神学的には自由主義神学に頼らざるを得なかったのです。「神の国の実現を目指して」は、社会的福音の牧師たちの、合言葉となっていったのです。
社会的問題とは何か。わたしたちはSDGsでそのことを知っています。SDGsとは、国連が定めた、2030年までに解決しなければならない17の共通目標のことで、SDGsが掲げる標語は誰一人取り残さないです。17の目標を達成しない限り、地球を存続し持続的に開発していくことは困難になります。17の目標とは、「①貧困」「②飢餓」「③健康と福祉」「④ジェンダー平等」「⑤安全な水と衛生」「⑦クリーンエネルギー」「⑧良い仕事」「⑨イノベーション」「⑩ゼロ不平等」「⑪都市と居住」「⑫生産と消費」「⑬気候変動」「⑭海の生物多様性」「⑮陸の生物多様性」「⑯平和」「⑰ナイスパートナーシップ」です。これらが社会的課題です。私たちは、17の目標の一つでも実現するために、少しでも努力を重ねることが求められているのです。冒頭で、国連が定めたと申しました。実は神が定めた目標と言いかえることができます。
ルカによる福音書の4章には、会堂の中でお立ちになっておられるイエスに対して、聖書が手渡された。それは、預言者イザヤの書で、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。『わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために』。
ここで語られたイザヤの言葉は、実は、イエス様の役割について語られているのです。貧困問題に取り組みなさいと神はイエスさまに語られているのです。同様なことは、ジェンダーについても言われています。本日は、社会的福音の実例として、3人の人物たちについて、見ていきたいと思います。一人は「姦淫の女」、2番目は貧困から抜け出るために日本に来た男、3番目は「サマリヤの女」です。少し長いですが辛抱してお読みください。
ジェンダー問題の例は、ヨハネの福音書 8章1節から出ています。
イエスはオリーブ山に行かれた。
そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。」
律法学者とパリサイ人は、姦淫の罪は、石打の刑罰だと決めておりました。イエスを試すため、かれのまえに姦淫の女を引き連れてきました。彼女は、イエス様のほほえみを見て、はっきりと知ったのです。このお方は、見えない慣習とか伝統の鎖で人間を縛る世の宗教家や道徳家とは違う、また自己の狭い論理の世界の中で、筋を通すことに満足し、それで人を裁くことを使命と考えているような心の狭い学者や鼻持ちならない正義漢ではない、このお方は、わたしの全てを見通されている、わたしという女をすっかりご存じの上で、受け入れて下さっている、わたしは愛されている、そう、愛だ。だがそれは、これまで接してきた男たちの愛とは全く違う。彼女の心には、人びとの前にさらされていた時の恥ずかしさとは異なった恥じらいが、そして喜びがこみ上げ、どっと熱いものがあふれてきました。イエス様のほほえみは、彼女にとって、これまで見失っていた人間性の息吹く世界へとはばたく力、泥沼の中から彼女を解放して新しく自由に生きさせる力だったのです。
聖書の話を一つ持ってきました。
ここで、ある一人の男に話題を転じてみましょう。その人は日本統治下の朝鮮で生まれ、日本に移民し、日本では相撲とプロレスで大活躍し、39歳の若さで亡くなった人物、金 信格( キム・シルラク )です。日本では力道山と名乗りました。敗戦後、意気消沈する日本人に勇気と自信を取り戻させた男でした。
日本の敗戦後、朝鮮では朝鮮戦争がおこりました。日本の統治下で、朝鮮人は日本に強制徴用され、炭鉱労働者、土木工事労働者などで、こき使われました。力道山は、14歳まで、シルムという朝鮮相撲の力士でしたが、日本の警官によって、強制的に、日本に連れてこられ、1940年、二所ノ関部屋に入れられました。日本にいた時の戸籍上の日本名は百田光浩です。1949年の5月には関脇に昇進しました。
1950年の5月場所を最後に引退・廃業し、プロレスラーに転向しました。力道山にとっては、日本も生まれ故郷の朝鮮も、同じ祖国だったのです。孤軍奮闘と言いますが、彼は彼なりに全力投球したのです。力道山は、1942年と1945年の2度朝鮮に戻っていますが、3度目に戻った時には、日本の敗戦後で、北朝鮮には戻れませんでした。
彼は日本に行く前にすでに結婚しており、北朝鮮で生まれた金英淑の存在は日本人には秘密でした。彼女は、17歳の時日本に行き、新潟港で父親と対面しています。娘はその時の様子をこう話しています。『私には入国の許可が出ていないので、上陸はせず、船中で父と会いました。私はその頃、バスケットのナショナルチームの一員でしたので、64年の東京オリンピックの時、ぜひまた会おうと、父は言いました。』力道山は娘に対して、東京オリンピックでは、共産圏の選手団の面倒を全部見てやる、と話したそうです。力道山が日本に行ってしまった後の金一家の生活は、貧しいものでしたが、食べていくことはできました。金英淑は、小学校の三年生の頃から背が高く、運動神経も人並み外れてよく、周りから注目されました。本当は絵をかくのが好きで、将来は画家になりたかったものの、力道山の娘として、また運動能力の面でも知られた存在で、バスケットボールのナショナルチームの選手として活躍しました。その後体育大学に進みましたが、ちょうど彼女が大学に上がる少し前に、力道山と新潟港で再開したのです。
力道山は、自分の娘のみならず、新潟港から引き揚げ船に乗り、祖国へ帰っていく同胞の見送りに、時間の許す限り、必ず新潟港に行っていたそうです。力道山は誰にも知られず、真夜中一人車を飛ばし、新潟港の陰で涙を流しながら、遠くから同胞たちに別れを告げたそうです。遠い祖国からはるばるやってきた娘と再会した時、激情家の力道山は、少なくとも、その言い伝え以上に慟哭したに違いありません。
力道山は1963年、日本航空の国際線スチュワーデス、田中敬子と婚約しました。日本人にとってだけでなく、朝鮮半島にすむ人々にとっても祖国の英雄である力道山には、韓国訪問の話が何度も来ていました。しかし、その都度、力道山は断り続けました。自分の出生を、隠し続けなければならないからでした。韓国に行ったことが公になれば、「日本の英雄が実は日本人ではなかったことがおおやけになり、本人がここまで盛り立ててきたプロレスの人気が落ちてしまう」と考えたのです。
力道山は側近に、「韓国行きの話があるんだ。俺はあまり気が進まないんだが…・。俺が韓国に行けば、新聞にはおそらく、力道山故郷に錦を飾る、なんて書かれるだろうな。俺は人気が落ちるのは構わないんだ。ただ、ファンの子供たちが力道山が持っているイメージが、狂うようなことがあったら困る。・・・・」と相談しました。その時側近は「そんなこと、どうってことないでしょう。たとえ百人の子供のうち、五十人が離れても、力道山の生き方を見て、やっぱり立派な人、強い人と思い直せば、きっとついてきますよ。」と言いました。
力道山は肚をきめました。「そうか、わかった。それじゃ、お前のいうことを聞いて、韓国に行こう」ただし、韓国行きは、極秘とされました。関係者には、箝口例が敷かれました。日本出発は、婚約発表をした翌日の1月8日でした。韓国では力道山は、国賓級の待遇を受けました。ジープが日韓両国の国旗を掲げて先導していく中を、力道山はシボレーのオープンカーに乗って、ソウル市内をパレードしました。韓国の新聞社「東亜日報」は大々的に力道山歓迎の記事を書き立てました。韓国では、首相、文部大臣、KCIA長官らと、会見が持たれ、親類のひとびととも再開しました。・・・・が、いちばん会いたい、尊敬する兄とは、38度線によって会えませんでした。力道山は、家族を引き裂いた「38度線」を憎んでいました。人を罵倒するとき、きまって吐いたのは「この共産党野郎」という言葉でした。韓国では、南北を分けるバンムンジョン(板門店)にも行きました。真冬の冷たい風が、吹き抜ける中で、力道山は38度線の前で、何を思ったか、いきなりオーバーを脱ぎ捨てました。背広もネクタイも、ワイシャツも脱ぎ捨てると、上半身裸になりました。国境を守る兵士たちが何事かと緊張しました。
力道山は、故郷に向かい、両腕を天に突き上げて叫んだ。「うおーっ」・・・三十八度線の山々に、彼の声は、どこまでもこだました。力道山に同行して韓国に行った、吉村氏は、彼の背後で一部始終を目撃しました。「両腕を突き上げて、叫んだ瞬間、力道山に向かって、国境の両側から一斉にカメラのフラッシュがたかれたんです。引き裂かれた故郷の現場にたって、こみ上げてくるものを抑えることができなかったんでしょうね。わたしにはあのさけびは、おにいさん!と言っているように思えて、仕方がありませんでした。」力道山は以後、二度と故郷の土を踏むことはありませんでした。
私たちは、日本の英雄・力道山について何を知っているのでしょうか。日本人に、勇気と自信をプレゼントしてくれた男、プロレス界のヒーロー、空手チョップで外人プロレスラーをやっつけた男、アントニオ猪木を育てた男、ある日突然、けんかをして刺され、運悪く命を落とした男、ではないしょうか。日本の植民地、朝鮮から言葉たくみに日本に連れてこられ、学歴もなく、金持ちになることを夢見、仕事には厳しい姿勢を貫いた男ではないでしょうか。
力道山がクリスチャンだったかどうかはよく知りません。記憶すべきは、彼が朝鮮と日本で、1963年12月15日に亡くなるまでの39年の生涯を精一杯生き切ったということです。彼の遺志は、後輩のアントニオ猪木に引き継がれ、彼は20年間で、33回、北朝鮮を訪れています。1995年4月28・29日アントニオ猪木率いる新日本プロレスは北朝鮮・平城で「平和のための平城国際体育・文化祝典」を開催、2日間で延べ38万人の観衆を動員しました。
猪木氏は北朝鮮の幹部たちと頻繁に接触して同国と日本の橋渡し役となる気があります。彼は、北朝鮮の労働者を日本に受け入れるべきだ、北朝鮮が経済成長する可能性についても語っておられます。
(了)