創世記第3章から

皆さん今日は。本日は旧約聖書の「創世記第三章」から学びたいと思います。

この3章を、創世記中で真珠と称賛した神学者もおられます。
日本基督教団作成の「旧約聖書略解」では、3章のタイトルは、「楽園の喪失」とつけられています。

楽園の喪失とは、古い宗教的伝説から借りられた素材ですが、道徳的宗教的洞察の深さにおいては、旧約中最も卓越した章の一つといえます。
そこには誘惑の深刻な心理がうかがわれ、「良心の目覚めと罪悪の観念」が取り扱われ、それらは生き生きと画のように描かれています。
文章は多くのことが、説明なしに除去せられています。
残念ながら、この物語には「時」のことが述べられていませんし、また木の実の禁止は、動物と女とが造られる以前でしたが(2.17)
どうして蛇と女とがそれ(禁止)を知ったのか説明が省略されています。

3章冒頭(3・1-8)には誘惑と罪のことが書かれています。人間に「助け手」を与えようとして最初に神が造られた動物のうち、
蛇は、「助け手」とならないばかりか誘惑者となっています。ここで蛇は悪魔(サタン)としては代表せられていません。
「サタン」の思想は、イスラエルの歴史においては、数百年後に発展を見ました。( 新約聖書の黙示録12・9では蛇はサタンの受肉者として登場します。 )
この章では、蛇は神の造られた野の生き物のうち狡猾なうそつきの一動物として、代表せられています。

なぜ神は楽園にかくの如き生き物を造られたか。その疑問は残されております。「創世記 1章」では、神が造られたすべてを「良し」とされたはずですが、この章(3章)では
悪を体現する蛇が園におり、この蛇は、外部からこっそりと、エデンの園にやってきます。

伝道者の書の7章29節には、「神は人を正しいものに造られたが、人は多くの理屈を探し求めたのだ。」とあります。
「蛇」は本能的に、人間に嫌悪の感情をいだかせる動物です。
蛇は、こっそりと忍び込んでやってきます。しかも、蝮のように人を死に至らしめる毒をもっています。

また、独断的に言えば、蛇が女に呼びかけたのは、女性が単純で誘惑にかかりやすい性質からです。
「蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

蛇が誘惑に用いた言葉は、狡猾でした。蛇は神に対する信頼を破壊する目的で、女の心に疑いの思想を投げ込むのです。
蛇は、禁止のことを(もちろん)知ってはいても、そしらぬ顔をして、教えを乞うがごとく尋ねます。その質問は神の善への疑いを暗示しています。

その口調は、園にあるどの木からも食うことを禁ずるというが如き、不当な自由の抑制と厳格さに対して、義憤的な驚きを感じているという調子です。
この一粒の懐疑に致命的な毒が潜んでいます。罪は一般に権威に対する反逆として始まるのです。

神のことばを再掲します。「神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、
善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(2・16,17)

この神のことばに対し、女は、「神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」と、答えています。

女の言葉には、神のことばに対して、そのまま受け取らない女の心が含まれています。神は「それに触れてもいけない」とは言われませんでした。

この追加は、神の禁止の厳しさを誇張して、蛇に共鳴を求めるためでした。3と4の間に、女の手が木に触れ、何事も起こらなかったという、事象が省略されています。

そこで、蛇は、女に言いました。「あなたがたは決して死にません。
あなたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

被造物である人間が、創造者である神のごとくになる、という大それた傲慢が、そもそも罪の根源です
そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。

それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

蛇はここで姿を消し、女に木の実を食べるように直接には導きませんでした。
( しかし、もっとも危険な誘惑には直接に導かれることは稀です。)
神の善を疑うという、誘惑に女は敗北してしまいました。

参考(6 だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。7 子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。8 罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。9 だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。10 そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行わない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。)第1ヨハネ3:6―10

快楽と神への不服従との闘いにおいて、自分のわがままな道を選ぶのです。神への不服従は、自我意思の擁護です。すべて罪は、不法である。

女がまず誘惑に敗れた時の3つの言葉、「食べる」、「目に美しく」、「賢くなるに好ましい」は人間の欲望や感覚的な性情や「神のようになろう」とする知的な傲慢などをよく表現しています。

「 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。15 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」(第1ヤコブ14‐15)


6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。

蛇の言葉どおり、彼らの眼は開かれました。しかしこの結果は、「神のように善悪を知る」ことからは、遠くかけ離れたものでした。

彼らはただ自分たちが裸であることを知ったばかりです。それまで(木の実を食べるまで)彼らは裸を「恥ずかしいとは思いませんでした。」それが今では耐えがたき卑しいものと感じられるようになったのです。神に対する不信の行為の結果、本来恥ずべきものでない自然を恥じるようになったのです。これは罪の意識の目覚めを象徴するものです。「罪」ということばは用いられていませんが、それが罪の意識を象徴していることは、神のみ顔から、人と妻とが自分たちの身を隠そうとしたことで、あきらかです。

罪の発覚
9から13節

9 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」

10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」

11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」

12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」

13 そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」

女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」

人は正直に自分の罪を告白する代わりに、その罪を妻に帰し、又責任を回避して、罪の原因を神自身に転嫁しました。その態度は卑怯で横柄な人間の特性を生き生きと描いています。

神は人と妻とが、自らの罪を認めてゆるしを請うことを待っておられたが、彼らは自分たちの罪を認めなかった。神は悔い改めない彼らをゆるすことはできなかったのです。

審判
14節から19節

蛇に対してのみ「のろい」という言葉が使われています。神は人とその妻とはのろわなかったのです。

15 わたしは、おまえと女との間に、また、お前の子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、お前の頭を砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

この句は、福音原型(プロト・エヴァンゲリウム)と解釈されています。

ローマカトリックでも、プロテスタント神学でも、この節を「人間と悪との久しい闘争の後、最後には女の末から生まれるイエス・キリストが、悪に致命的打撃を与える預言と解釈されている。

文字どおりにこの言葉を受け入れがたいとしても、この預言には、福音の真理が原理的に含まれていることを認めることができます。主は罪を犯した人とその妻のために皮の衣を作って与えました。

それは肉体の保護のためでしたが、魂の擁護のために主は人と悪との間に、「恨み」を置かれました。「恨み」とは仇敵の憎悪です。
それは罪悪に対する良心の嫌悪です。最初蛇と女との間には、禁断の木の実に関する限りにおいては、互いに嫌悪の感情はなく、

むしろ神の厳しい律法を非難する態度におい友誼的同意がありました。もしもこの情勢がいつまでも継続していたならば、人間の魂は、蛇の誘惑の前に惨敗し、悪が永久に「此の世の君」としての支配権を握ることになったでしょう。

旧約の歴史は、人間と罪悪との闘争の歴史でした。それは人間と悪との間に「恨み」が置かれていたからです。しかし旧約における悪との闘争の歴史は激烈であったとはいえ、

そのかしらを砕いて罪に致命的打撃を与えるほどのものではありませんでした。

人間の内部は「蛇の血」の思想であまりにも深く汚されていた。人間が罪に打ち勝つためには、神自身が地上に降って来なければなりませんでした。

しかも肉において弱き人間を救うために、「女から生まれ」なければならなかったのです。(ガラ4・4)。

福音原型の預言は主イエスが、「私はすでに世に勝っている」(ヨハネ16・33)と宣言されたとき、成就されたのである。「かかとをくだき」は主の苦難と十字架の預言で、「彼はお前のかしらを砕き」は復活の主が罪と死の力に打ち勝つ預言と解せられてきました。 

エデンからの追放
22 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」

この節は、人は神のようになろうとする野望をいだいている。その傲慢な態度は、バベルの塔の物語では最高潮に達している。人が神のようになろうとする野望から、禁断の木の実を食べた時、他の危険が差し迫っている。それは人間が不死を得ようとする野望であった。

しかし「不死は罪ある存在者にとっては問題外である。」救いの過程は今後長く続くのであるが、まず神の防止する行為から始まるのである。

*******************************************************************************

創世記 3章


1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。

3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」

4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。

5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。

8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた、それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。

9 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」

10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」

11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」

12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」

13 そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」

14 神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。

15 わたしは、おまえと女との間に、また、お前の子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、お前の頭を砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

16 女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」

17 また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。

18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。

19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」

20 さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。

21 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。

22 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」

23 そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。

24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

***************************************************