返還50年の今を問う

今日は。ようやく暑さが和らいできましたね。外ではセミがうるさく鳴いています。

本日は、1972年に実現した沖縄返還をトピックします。返還後50年がたったのです。文章は、生活と自治の連載記事から引用したものです。

時代の透視図 混沌とする現代社会の今。透かして見ればそこには何が見えるのか。

  【沖縄50年の今を問う】平井明日菜
  
沖縄の歴史と今にどう向き合うのか。寄り添うのではなく、わが身を置くこと。
観光で沖縄を訪れ、美しいビーチやサンゴ礁、独特の琉球文化に魅せられる人は多い。だが、普段は優しいウチナーンチュウ(沖縄の人)が、ときおり見せる静かな怒りがある。その意味を知るヤマトンチュ(本土の人)はどれだけいるだろうか。沖縄戦を生き抜いた人、そして現在の沖縄を生きる人の話から、沖縄の痛みを、自分事として捉える方途を探る。

沖縄返還は、1972年5月15日に、沖縄の施政権がアメリカ合衆国から日本国に返還されたことを指します。日本国とアメリカ合衆国との間で署名された協定の正式名称は「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」です。日本の法令用語としては、沖縄の復帰といいます。

( 語り始めた沖縄 )
「ここ10年くらいです。亡くなる前に語り始めた人たちがいて、『疎開者は毒のあるソテツの食べ方を知らず一家で全滅した』とか、『着物と食糧と交換してと言うのを断ってかわいそうなことをした。今でも胸が痛い』という話を耳にするようになりました。」
沖縄県北部、大宜味村の村史編さん係で聞いた話だ。アジア・太平洋戦争末期、米軍は沖縄本島に上陸、中南部では住民を巻き込む地上戦が展開され、多くの犠牲者を出した。壮絶な体験をした人々の口は重い。また、県北部や鹿児島などの圏外に疎開した人たちも、詳細を知らないまま長い年月が過ぎた。だが、ここにきて変化がみられるという。戦争中、村には中南部から多くの人が疎開していた。近年は、疎開中に弟をなくし埋葬場所を知りたいという人や、祖先供養のシーミー(清明祭)を行いたいという人が、頻繁に村を訪れるようになったという。南部の豊見城(とみぐすく)市の教育委員会出は2015年から「ヤンバル疎開地を訪ねるツァー」を企画し、3年間で延べ100人以上の方が大宜味村を訪れている。ツァーに参加した赤嶺安造(85)さんは「ずっと訪れたいと思っていた。お世話になった“書記さん”(区の役員)にお礼が言いたかった」と話す。当時、母と姉、安造さんと二人の弟で疎開した。高齢の祖父母は残った。父は軍役、長男と次男も宮崎県に学童疎開で不在の中、1945年3月25日に家を発った。100キロ以上ある道のりを、3~6日かけて移動したと言う。「母は1歳の弟をおぶい、頭に荷物を載せて歩いた。姉も同じで、4歳の弟が歩けなくなるとおぶう。首里、浦添、宜野湾を通って、コザで親戚と合流。途中、橋が壊されていて、流れに飲み込まれそうになりながら渡り切った。ガマ(自然洞窟)に隠れていろと言われても、魚を探して遊びまわっていた。その時爆弾の破片が足元に飛んできたが、命拾いした。焼け野原となった名護市内に入り、大宜味村へ続く海沿いの道で日本軍のトラックに拾われた。」と道中を語る。避難先の公民館で、“書記さん”に出会い、温かいおにぎりをもらった。「それが本当においしかった」と目を潤ませる。その後はすぐ山中での生活が始まり、石川(現うるま市)のあたりで山から下りたところを米軍に収容された。山には3~4か月いたと思うが、収容された時期はわからない。終始穏やかに話をしていた赤嶺さんが、唯一、目の色を変え、声を大きくしたのは昭和天皇に関することだった。「戦後、天皇は沖縄をアメリカに差し出した。沖縄に一度も来なかった」。47年に昭和天皇が沖縄の占領継続を求めるメッセージを米軍に伝えたことを指す。79年に米軍の公文書から明らかになったことだ。かつては“天皇の子”だと教えられていた世代の怒りだった。

(沖縄を知らない子供たち)
小学校のころから戦争体験を聞いて育ってきた仲本和(わたる)(22)さん。沖縄国際大学をこの春、卒業したばかりだ。戦争体験者の減少に危機感を抱くが、疎開者の話などこれまで語られてこなかった多様な体験談がここにきて出始めたと言う。「沖縄の歴史を知らない子供たちには、辺野古基地の建設反対の座り込みをしている、おじい・おばあが暴力的に見えるようです。でも、どっちが暴力的なのかな。自分だったら、沖縄戦を生き抜いた人たちには穏やかな老後を送ってほしい。それなのにまだ戦わせていることを申し訳なく思う」
仲本さんは、宜野湾市の中心にある米軍普天間飛行場の見える公園で、県外から訪れる修学旅行生に向けガイドをしている。「どうして沖縄に米軍基地があると思う?」「中国や北朝鮮の脅威から日本を守るために米軍基地が必要と言うなら、自分の横に基地が来ることになったら賛成する?」と子どもたちと対話する。戦中、沖縄が日本本土を守るために捨て石にされたこと、戦後は本土から切り離され米軍統治下に置かれたこと、72年に日本に返還されたが米軍基地は残ったこと、郡の起こす事故・事件は後を断たず、治外法権状態で沖縄の人の人権が守られていないこと―――沖縄に生まれたら、当たり前のように知っていることだ。しかし、県外の子供たちの多くはその事実を知らず、そのまま大人になって選挙権を持つ。沖縄がどんなに基地に反対しようとも、多数の国民が、無関心でいることで、結果的に沖縄に基地を置くことを認めている。「最初は、なぜ県外の子供たちは沖縄について何も知らないのかと思っていました。しかし、そうさせているのは社会であり、子どもに責任はありません。互いの理解を深められたらいいと、ガイドや、オンラインも含む平和学習などの依頼を受けています。今は、ガイド育成にも力を入れています」

(“よそ者”と沖縄)
「逃げてきたけど、原発に似た大きな問題が沖縄にありました。歴史を知れば知るほど、沖縄はずっと暴行され続け、いやなことを押し付けられている場所だと実感するようになりました」。福島第一原発の事故をきっかけに、県北部の山原(やんばる)地域に移住した橘田(きった)優子(47)さんはそう話す。現在はスタッフと共に、染料植物の栽培、採取、染色、縫製をする。移住当初、自分は基地を押し付けてきた側であり、“よそ者”という遠慮が強かった。山原の森は神聖で、おいそれと入っていくことはできなかった。しかし、この自然を守り、土地に住み続けるためにも声をあげてもいいはずだ。2016年に、米軍北部訓練場(東村、国頭(くにがみ)村)の約半分を返還することを条件に東村高江で米軍御ヘリパッド(ヘリコプター離着陸帯)建設工事が始まったときには、反対の座り込みに参加した。だが参加してわかったのは、座り込みは「戦いの場」であり、苦手だということだった。「臆病なのか、リアリティーが足りないのかと自問しました。そんなとき、年配の友人が「若い者には若い者がやることがある。僕らはこのやり方しか知らんし、座り込みは僕らがやればいいんだよ。そこでしか会えない人もいて、結構楽しいんですよ。」と明るく笑いながら言ってくれました。この言葉に救われました。」返還された元飛行場からは、薬きょう、パラシュート照明弾など軍由来の廃棄物が見つかった。山原の森は、貴重な固有種の生息地、水の保養地であり、沖縄戦では多くの人の命をつないだ森でもある。状況に胸を痛めながら、それを作品へと昇華させていった。「土から生まれ、土に還るものを作りたい。人間のエゴが暴れていない、美しい海・森を表現することで、それに触れた人が自然を大切に思う。そういう感覚を養うものを作りたい」

(沖縄に暮らす。それぞれの思い)
辺野古新基地建設現場のある大浦湾で漁師を生業とする玉城周政(のりまさ)(51)さん。現在は基地建設に賛成でも反対でもない立場だという。ただ、そこに至るまでにはさまざまな葛藤があった。「基地建設は止められない」という諦めの一方、子供たちにこの海を残したいという強い思いもあると複雑な胸中を語る。嘉手納基地と隣接するコザ市(現在の沖縄市)に育ち、基地で働く仲村洋(52)さん。幼いころから米軍家族と交流があり、米軍基地は身近な存在だった。19年、辺野古基地建設をめぐり埋め立ての賛否を問う県民投票のとき、父は「大事な選挙だから投票に行け」というが複雑な気持ちだった。軍人、軍属に囲まれる特殊な環境の中で多様な経験を得られたのは良かったと思う一方、「戦闘機が舞う空、軍艦が入港する海。沖縄の見習れた景色がウクライナ情勢と重なって、戦争はあってはならないと強く思うようになった」と言う。今年の3月までエフエム名和のラジオ番組でパーソナリティーを務めていた河原弥生(44)さんは、地元市議会が「辺野古埋め立ての南部の土砂採取に反対する意見書」を否決したことに対し、おかしいと声をあげハンガーストライキや署名活動を実施、議会の決定を覆した。ともに活動したのは中学の同級生だ。親や教師に躊躇なく反抗していたころを知る親たちは「あなたたちだからこそできるんだよ。立ち上がってくれてありがとう!」と応援してくれた。戦争にいや応なく巻き込まれた人たちの人権を踏みにじらないでほしいと語る。

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「沖縄の痛みをわがことのように感じる」というのは、女性史研究家のもろさわようこ(97)さんだ。1972年に初めて沖縄を訪れ、そこで、頭上に荷物を掲げ堂々と歩く女性たちに原始の女性の姿を見た。沖縄に救われたという。「私は、日本人として沖縄に対して原罪性を身に帯びています。沖縄を捨て石にし、戦後は沖縄を質に入れて日本は独立しましたから。そういう立場ではあるけれど、沖縄の人に遠慮して、本心を言わないでいてもいいことはありません。忌憚のない意見を出し合っていくことで、考えを新しくしていくことができる。考えを新しくすることは、生き方を新しくしていくことです」今年初めまで南城市に自身が創設した「歴史を拓くはじめの家うちなぁ」で暮らしていた。志への共感、「志縁」でつながる人々の交流の場だ。「行動を伴わなければ嘘になる」と、痛み深く生きる人々の現場に身を置くことで、自分の痛みの持ち方を省みたと言う。問われているのは、沖縄の苦難を生んだものをわがこととし、どう行動し生きるかだ。
(了)