マグダラのマリア

2016年6月、ローマ教皇庁が毎年7月22日を「マグダラの聖マリアの記念日」として、全教会に義務付ける。2017年の四旬節の黙想で、フランシスコ教皇は、マグダラのマリアのことを「新しい、最も大きな希望の使徒となった」と表現した。彼女はこうして、ようやく「福音の第一使徒」と認められた。

この間、フェミニスト神学者による古代イスラエルで女性がいかに使徒として活動していたかの研究がなされた。
2003年に、アン・グレアム・ブロックがハーヴァード大学に博士論文『マグダラのマリア、第一の使徒-権威を求める戦い』(Ann Graham Brock, Mary Magdalene, The First Apostle:The Struggle for Authority )を提出、博士号を取得した。

この論文の作成にあたって、彼女は数多くの言語テキストを読み、中にはコプト語(エジプトの言語)、シリア語のようなものも含まれる。作者は、マグダラのマリアは使徒であったこと、しかも第一の(最初の・最も重要な)使徒であることを論証しようとした。

キリスト教の歴史を通じて、長い間、(ことに教皇グレゴリウス1世(在位590-604))が誤認を推し進めて以来)聖書には何の根拠もないにもかかわらず、マグダラのマリアは、ルカ書7章36‐50節に登場する「罪深い女」との同一視から娼婦とされ、そのイメージは貶められたり神聖視されたりしてきた。しかし少なくとも今日のキリスト教会の中では、フェミニスト神学の成果を受けて、悔悛した娼婦としてマグダラのマリアが語られることは少なくなり、むしろイエスに従った行動力のある女性、そして何よりも復活の証人としての重要な働きをした女性として注目されるようになった。

だがその一方で、マグダラのマリアが「使徒」であったか、ということになると、教派レベルでも個人レベルでも、留保を付けられることが多いのだ。
その背景には、多くのキリスト教徒は「使徒」と言えば「十二使徒」のイメージを思い浮かべるため、この十二人の男性たちに含まれていないマグダラのマリアは使徒とは言えないと考える、ということがある。

著者(アン・グレアム・ブロック)は、初期キリスト教の「使徒」の定義と、使徒となるための権威について再検討することにより、マグダラのマリアは使徒の地位にあるリーダー的女性であったということを論証している。

H.ハーレーの「聖書ハンドブック」はマグダラのマリアについて、以下の通り記述している。
①マグダラのマリアは女たちの中で特に目立つ指導者であった。
②彼女の名は他の女たちの誰よりも多く記され、たいてい最初に挙げられている。
③彼女は復活のイエスに最初にあった人であった。相当の資産を持っていたことを暗示する個所もある。
④彼女が不貞節であったとはいえない。疑いもなく彼女は潔白な品性の女であった、決して「罪深い女」ではない。イエスが、公然たる売春婦をその一団の婦人指導者としたとは考えられない

竹下節子(カトリック)は「女のキリスト教史」でマグダラのマリアが罪深い女と同定された理由を推測している。
① 聖書の中に出てくる数人のマリア(1 イエスに悪魔祓いを受けたマリア、ラザロとマルタの兄弟であるべタニアのマリア、イエスに香油を塗った罪の女 )を「罪の女マグダラのマリア」として混ぜ合わせたのは六世紀の聖グレゴリオ一世だった。といっても、十三世紀以前のカトリック教会の判断にはいつも民衆の信心が先行していた。イエスに福音宣教を託された「使徒」であるはずのマグダラのマリアは、中世の人々にとって「改悛した罪の女」である必要があったのだ。
② 中世ヨーロッパのキリスト教文明は、人々に社会のビジョンを提供する役割を担っていた。当時のキリスト教のモデルとなった女性像は、人間を堕落させて楽園から追い出された「罪の女イヴ(エバ)」と、その原罪を贖ってくれるキリストを産んだ無原罪の御宿りの「おとめマリア」とに二極化していた。殉教処女や聖女たちはみな「おとめマリア」の道を目指している。けれども、当然ながら、「普通の人々」は、父権制社会の「落ちこぼれ」である「罪の女」はもちろんのこと、誰でも罪と過ちを繰り返す。そんな現実の女性たちのために、イヴと聖母という両極をつなぐ架け橋としてマグダラのマリアが選ばれたのだ、それは民衆の期待と一致するものだった。

ポイントは中世ヨーロッパ社会が父権制社会であったということである。マグダラのマリアが第一の使徒であることを論証した、アン・グレアム・ブロックはフェミニスト神学者であり、学位論文審査委員会のメンバーであった、4人の学者、フランソワ・ボヴォン教授、カレン・キング教授、ヘルムート・ケスター教授、エリザベス・シュスラー・フィオレンツァ教授に感謝を表明している。聖グレゴリオ一世の時とは時代が変わったのである。
フェミニスト神学がいかに重要な神学であるかを示しているといえる。


竹下は、「女のキリスト教史」でさらに記述を進めている。
初期共同体の中で優れた使徒と認知されていた二人の人物の内の一人が明らかに女性だったことも知られている。
( ローマ人への手紙第16章 )
16:3キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。 16:4この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。 16:5またその家の教会によろしく伝えてください。私の愛するエパネトによろしく。この人はアジヤでキリストを信じた最初の人です。 16:6あなたがたのために非常に労苦したマリヤによろしく。 16:7私の同国人で私といっしょに投獄されたことのある、アンドロニコとユニアスにもよろしく。この人々は使徒たちの間によく知られている人々で、また私より先にキリストにある者となったのです。

ユニアスは男性名だが、もとは「ユニア」という女性名だった。コンスタンチノーブル大司教で聖ヨハネ・クリソストモスもこの人物のことを評して、「この女性の知恵は偉大で、使徒と呼ばれるにふさわしかった」と書いている。それなのに、その後の男性優位のローマ帝国の時代に、いつのまにかユニアは男性名であるユニアスに改竄され、その結果文法上の祖語も生じている。

「復活のキリスト」ではまだなかった生前のイエスが説教の旅をしていたころから、その教えに心酔して、故郷や家を捨てて従った女性たちは少なくなかったようだし、裕福な女性がイエスたちの活動を支えていたことも知られている。マグダラのマリア自身も、のちに意図的に習合された「イエスに許された罪の女(姦通の女や娼婦)」などではなく、マグダラに立ち寄ったイエスに救われた後で、家族を捨ててイエスに従った若い女だった可能性が高い。

(イエスの)刑死という受難を経て男たちの信頼や希望が揺らいだ後では、「復活のイエス=キリスト」を信じる点において、女性たちは概して男性たちよりも先んじていたように思える。
それだけではない。ローマ帝国の一族量に過ぎないパレスチナの一角から宣教を開始したキリスト教が迫害に遭いながらも最後は国教にまでなり、のちのヨーロッパを席巻した背景にも、女たちの果たした大きな役割がある。ローマの資産階級の裕福な女性たちが次々と洗礼を受け、初期キリスト者たちを助けた。若いころに放蕩した聖アウグスティヌスが母モニカに影響を受けて洗礼を受け、ラテン教父となって初期キリスト教神学の基礎を気付いたことも有名だ。

そもそも、女性たちが率先してキリスト者となったのは、父権制社会に縛られていた女性たちにとってはキリスト教が「自由」の道と同義になっていたからだ。結婚して財産を継承させる子供を産むという「正しい道」をまっとうしない女性には、奴隷、娼婦、病者などとして搾取されたり隔離されたりする以外に選択肢がなかった時代に、自立して行動したり互助システムを創ったりする道が与えられたのだ。キリスト教が迫害されていた時代には、異教徒との結婚を拒否して殉教した聖女たちも少なくなかったが、その後、財産も教養もある寡婦として堂々とキリスト教を広めた女性たちの存在は大きかった。概して女性のほうが先にキリスト者となり、率先して子供たちを信仰に導いたという大きな流れが、キリスト教の勢力を拡大した。こうして、復活のイエスがマグダラのマリアに託した使命は女性たちに確実に受け継がれていったのだった。