聖書の読み方
皆さん今日は。本日は聖書の読み方に行いて考えてみましょう。
まずマタイによる福音書の11章28節から30節までを見てみましょう。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
(英文)Come to Me, all you who labour and are heavy laden, and I will give
you rest.
皆様はこの言葉を聴いてどのようにお感じになられますか。日本語の「救い」という言葉には、海や川の中でアップアップおぼれている人を助け出す、という響きがあります。「救い」とは、この苦しみや悩みの生活の中から救いあげられて、そういう苦しみや悩みのない世界、つまり天国とか極楽といったようなところへ連れてゆかれることだ、と私はかつて考えていました。あのイエス様の言葉も、私たちが重荷を負って苦しんでいるとき、イエス様がやってきて、その重荷を取り除き、私たちを天国のようなところに引き上げてホッとさせてくださるのだ、というふうに理解していました。
しかし、聖書の原語の意味を一つ一つ調べたり、いろいろ他の翻訳を見たりする作業を行っていますと、多くの思いがけないことに気づかされるのです。この「休ませる」という言葉の意味もそうなんです。ルターが、聖書をドイツ語に訳した時、彼はこの言葉を「エアクヴィケン(元気づける)」と訳しているのです。
ルターによりますと、この聖書の「休ませてあげよう」の意味は、苦しい状態から救い上げるとか懐(ふところ)の中でぐっすり眠らせてあげるというのではなくて、元気づけてあげる―活力を与えてもう一度その重荷を負って生きてゆけるようにしてあげる―ということなのです。
そういうことを意識して聖書をはじめからもう一度読み返してみました。なるほど、聖書の神様は、人間を眠らせるというやり方で救いをお示しになってはいないのです。その逆である、ということに気づかされました。例えば、新約聖書では、「起き上がらせる」とか「目を覚まさせる」という言葉がやたらと目だちます。「病人を立ち上がらせる」、「眠っているものを起こす」といった具合にです。
その中でも決定的な出来事は、神様が十字架上で死んだイエス様を起き上がらせたということ、すなわち、「復活」という神さまの起き上がらせる働きです。そして実に、この復活信仰こそが新約聖書の語る「救い」の中心になっているのです。聖書は、私たちがもうだめだと思うような状況の中におかれたとき、そこから脱出したり、そこでぐっすり眠ったりすることを「救い」だというよりも、その中で立ち上がること、死からさえ起き上がらせられることを救いといっているのだ、ということに私は気づかされたのです。
なるほどと思いました。聖者は単なる教養のための本ではなく、神が人間にメッセージを語られているのだ、と考えてみることにしました。
聖書を読む場合、通常私たちは、「行間を読む」、ような読み方はしません。書かれた言葉を、忠実に解釈していくのが聖書解釈の仕方だと思っています。
でも行間を読むのも悪いことではないなと、思わせてくれた方がおられます。この方は、聖書には「微笑んでいる」イエス様が描かれている、と主張されています。<「イエスのほほえみ(速水敏彦)>
新約聖書には、「イエスほほえみたもう」といったような、イエス様のほほえみについての直接的な記事はございません。しかし、福音書が語っているイエス様のご生涯のいくつかの場面で、私(著者)は、はっきりとイエス様のほほえみを見ることができるのです。
十二年間も長地で患っていた女がイエス様と出会う物語や、また、ユダヤ教の権威者たちが、姦通の現場を見つけて捕らえた女をイエス様の前に連れてきて、イエス様を試すという事件、ルカが記しているイエス様と徴税人の頭ザアカイという人の出会いの物語、などです。
福音書が語るイエス様の生涯において、この他にも私(著者)はいくつかのほほえみを思い浮かべることができるのですが、そのほほえみは、すべて、悲しみの中のほほえみ、苦しみの中のほほえみであると言えます。イエス様は、人びとの悲しみや苦しみを、人生のマイナスを自らに引き受けるだけでなく、その悲しみや苦しみの中にある人々を立ち上がらせ、新しく再び生きてゆく力を与えてくださるお方なのです。
聖書の中心には「あわれみ」という言葉があります。
【主】は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。父がその子をあわれむように、【主】は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。(詩篇103:8〜14)
神がどのような方であるかというイメージが、人の生き方を大きく左右します。もし、神が、いつも怒っていて、天罰をくだす存在だとすると、私たちは平安を持って生きていくことはできません。この詩篇はダビデ王によってかかれたものです。ダビデは神を心から愛した人物でありながら、大きな罪を犯してしまった人物でもあります。ダビデは、神は正義であると同時に、あわれみと愛に満ちた方であることを証言しています。
あわれみは、哀れみ、憐れみとも書きますが、旧約の特徴的な表現法です。怒り、悔やみ、嫉むなどとともに、あわれみも神と人とに共通の情念です。それは本来対象の(可憐な、あるいは 悲惨)な状態によって、触発される同胞的共感の情です。ヘブル語のあわれみ( ラハミーム )は、胎(たい)と同根であり、親子、兄弟の間の切なる感情を表します。「神」のあわれみは、これらの人間感情の基礎になっている同胞感や、優越感に基づくものではありません。しばしば親子に擬せられる神とイスラエルの関係は、自然発生的ではなく、契約によって成り立つ歴史的・人格的なものです。神と人間の関係を夫婦に擬せられる場合には、このような人格的関係は一層明瞭になります。「正義と公平といつくしみとあわれみをもって」( ホセア2:19
)、神がイスラエルをめとるというとき、それは不貞の妻に対する審判とゆるしを、内に含むあわれみである。夫たる神が「捨てられて心悲しむ妻」を招くように、「大いなるあわれみをもって」再びイスラエルをめとり、永遠の「いつくしみをもって、あわれむ」( イザヤ 54:6-8
)という第二イザヤの感動的な一句に至って、もっとも明らかなように、あわれみはいつくしみとならんで 終末的、救済的な内容を持った神学用語となります。いつくしみとあわれみは、ともにエレオスと訳されることが多い。前者のいつくしみは、契約によって拘束される相互義務的な愛ですが、後者のあわれみは、契約以前の、あるいは契約を超える一方的・自発的な愛として、区別されます。
その点で、「あわれみ」は、「いつくしみ」よりも、恵みに近いのです。神は「恵もうとするものを恵み、あわれもうとするものをあわれむ」(出33:19)からです。シナイにおける神の自己啓示(出34:6)においては、あわれみと恵みが真っ先に語られています。
もちろん それは気まぐれなものではなく、どこまでも契約を媒介とするいつくしみに裏づけられ、罪のゆるしを伴う恵みと結びついています。
このような神の救済的思考としてのあわれみが、後期ユダヤ教の時代になると、しだいにいつくしみや義と区別しがたい神の属性、あるいは人間の特性となります。しかしその本来の志向は、第三イザヤの祈りの一節(イザヤ63:15)にあざやかな陰影を残しています。そこであわれみに先立つ「切なる同情」( 原意は、腸(はらわた)がとどろくこと)は、義と愛とが屈折交叉して、深い共感と苦悩とを呼び起こし、ついにあがないを招来する神のあわれみの動因ともいえる。
新約聖書は、ギリシャ語で書かれていますが、あわれみは「エレオス」の訳語であって、一般的には他人に対する<慈悲><親切>、とくに窮状にあるひとびとに対する<慈悲><親切>、またそれを表す行為を意味します。
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(ルカ10:37)。
次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」
*********************イエス自身も病イエス自身も病人・悪霊につかれたもの・世から捨てられた取税人や罪びとなどをあわれみ、彼らのあわれみを求める声に答えて、彼らをいやし、助けたばかりでなく、あわれみを信仰生活の重要な問題の一つとして取り上げました。
(マタイ5:7)
あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。
あわれみは神の好むところであり、神のあわれみを受けている人間が、他人に対して当然持つべき態度として、神が人間に要求されるものです。したがってあわれみを持たないものは、神の裁きに会うという思想も、新約聖書の所々にあらわされている。
人間に対する神のあわれみは、個人の窮状に対する助けとして表されることもあるが、なによりも人類の救いの約束に対する、神の真実において示される。
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(ルカ1:46)
マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。
力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。
このようにして、神のあわれみは、神の自由な選びと無条件な恵みとに関連して、救済史的な意味を持ってきます。
パウロはしばしば自分自身の体験から、キリストによる選びが、神のあわれみによることを述べ、亡ぶべき、「怒りの器」に対して、神の選びにあずかるべき「あわれみの器」という表現を用いています。
新約聖書が他人に対するあわれみや神のあわれみについて語るとき、厳密な神学的表現をとっていなくても、イエスのあわれみの行為や使徒の証言なども、明らかに示すように、神のあわれみはキリストの救いのわざを通して、キリスト者に与えられるものであり、また。そのあわれみがキリスト者の他人へのあわれみの根拠であると理解されていることは言うまでもない。
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あわれみは神の永遠かつ必然的な属性で,苦悩や困窮のうちにある者たちに向かって示される神の慈愛である.聖書では,同情,忍耐,愛,情けといったことばが,実際には同じことを表すのに用いられている.
旧約聖書におけるあわれみの基本的な語は,ヘブル語のラハミームであるが,この語は「胎」を意味する[ヘブル語]レヘムから派生したと言われている.そのことから,自分の胎から出た子供に対する母親の切々たる情愛や,同じ胎から出た兄弟間における近親的情愛を表現するものと言われている(詩篇103:13,イザヤ49:15,エレミヤ31:20).
一方,神のイスラエルの民に対するあわれみは,特にその選びと契約,さらにその契約の保持において顕著に表されている.例えば,Ⅱ列王13:23では,「主は,アブラハム,イサク,ヤコブとの契約のために,彼らを恵み,あわれみ,顧みて,彼らを滅ぼし尽くすことは望まず,今日まで彼らから御顔をそむけられなかった」と記されている.ハバククもこの神のあわれみにすがり,「激しい怒りのうちにも,あわれみを忘れなださい」(ハバクク3:2)と神に肉薄する祈りをささげている.
同時に,神のあわれみは,神の正義と公義に基づくことも忘れてはならない(ホセア2:19).それゆえ,神の「痛み」あるいは「わななき」は,神のあわれみと正義とから発出している(エレミヤ31:20).やがて,この神の「わななき」は,新約時代に至って,イエス・キリストの十字架において明らかに啓示されるのである.
新約聖書では,神のあわれみを表すのに[ギリシャ語]エレオスが用いられている.この語は,イエスの良きサマリヤ人のたとえ話に登場する傷ついた旅人のような全く助けのない絶望状態にある者に対する同情の思いを意味している.イエスはこの説話の中で,「エレオス(あわれみ)をかけてやる」行為がどんなものであるかを具体的に教えておられる(ルカ10:30‐37).同様に使徒たちも,対人関係におけるあわれみの行為を,その教えの中心とした(ヤコブ2:15,16,Ⅰヨハネ3:17).
旧約におけるイスラエルの民の選びと契約における神のあわれみの概念は,新約における新しき神の民においてもそのまま受け継がれている.パウロは自らを「あわれみの器」(ローマ9:23,24)と言い,「私たちは,あわれみを受けてこの務めに任じられている」(Ⅱコリント4:1)との自覚に立っている.同様にペテロも,「あなたがたは,以前は神の民ではなかったのに,今は神の民であり,以前はあわれみを受けない者であったのに,今はあわれみを受けた者です」(Ⅰペテロ2:10)と,あわれみの存在である新しき神の民について強調している.
神のあわれみは,罪ある人間に対する救いの行為の源泉である.例えば,イエスの説話中,放蕩息子の父親を動かしたもの,また良きサマリヤ人を動かしたものは,いずれもあわれみであった(ルカ15:20,10:33).エペソ2:4,5やテトス3:5,6には,罪人の救いにおける神のあわれみの行為が言い尽されている 1984.(工藤弘雄)(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社,
1991)
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