一神教の成立とオリエント世界

一神教の成立とオリエント世界

オリエントとは、ヨーロッパから見て「日出るところ」を意味する。そこは西アジアからアフリカ北東部一帯に広がり、陽光にあふれ、高温であるが、雨が少なく乾燥している。中心地域は肥沃な大河流域で、東と北には山岳地帯があり、南と西には砂漠が広がっている。大河に恵まれたメソポタミアとエジプトでは、灌漑農業が営まれ、青銅器が使用されるようになり、前4千年紀には都市文明が成立する。

やがて前3千年紀後半には、周辺地域にも都市文明は広がり、セム語系の人々を中心にオリエント世界という文明圏が姿を現した。それらは都市国家や王国をなし、強大な王権による民衆の支配が通例であった。これらの文明圏の影響は、海を越えてエーゲ海の沿岸地方や島々に及ぶことになる。

前2千年紀になると、この豊かな文明世界にインド=ヨーロッパ語系の諸族があいついで南下してきた。オリエント一体で諸勢力がひしめきあい、それらの目まぐるしい興亡の歴史がつづいた。それとともに、大河流域の両翼にはさまれたシリア・パレスチナ地方では、諸勢力を仲介する商業貿易が活発になってくる。海上交易も発展し、東地中海の海域を結ぶ世界が形成されるようになる。前1千年紀には、フェニキア人などの交易活動がさかんになり、地中海全域に文明がもたらされた。また、アラム人などの活躍によってオリエント文明の影響はイラン高原から中央アジアにまで及んでいる。

このような拡大した文明圏の大部分を支配したのが、まずアッシリア帝国であり、次いでペルシア帝国であった。エーゲ海沿岸地域は平地が狭く、背後には山々が切り立っている。そこに住むギリシャ人はオリエントの影響下に独自の文明を開化させた。数多くの都市国家が成立し、そこでは強大な王権が生まれにくかった。この社会ではぐくまれた文化は、後世の西洋文化に大きな影響を及ぼしたことから古典文明とよばれている。それは、やがてヘレニズム文明として、地中海全域からインダス川にいたる地域に広がることになる。

都市の出現:
各地に農業が広がり、やがて生産物が増大すると、人口が増え、各地域間で物資の交換が繰りひろげられるようになる。それと共に商人や職人があらわれ、交易の拠点には都市が生まれた。これらの都市の出現はおおよそ前4千年紀のことであり、アジアのいくつかの地域ではじまっている。とりわけオリエントのような乾燥地域では、大河の沿岸に都市が発展し、その周辺で灌漑農業が営まれ、豊かな農業地帯が広がった。これらの都市は城壁で囲まれ、神殿が建てられて政治の中心地となるものもあった。都市には、商人や職人のほかに、祭司をつかさどる神官や防衛のための戦士がいたが、神官や戦士がしだいに勢力を強め、冨を蓄えて、都市の権力を握った。彼らは支配階級をなし、彼らに従属する人々との階級の文化が明らかになった。それとともに、都市は周辺の集落を支配下におさめて、都市国家に成長した。

都市が生まれたころ、青銅器が使用されるようになる。金属器時代のはじまりであった。西アジアでは、当初は、斧や刀剣としてつくられ、やがて容器、装身具、留針としても用いられるようになった。さらに、神意をうかがう祭祀や財政・会計事務のために文字が発達したが、それは人類にとって大きな発明であった。支配階級の間では、権力や富を誇示するものとして美術・工芸品がもてはやされた。これら都市生活のなかで、諸文化が融合した中から生み出された生活様式などを文明とよぶ。文明は、風土や環境のちがいをこえて様々な地域に伝えられていった。

エジプト文明
ナイル川は、毎年夏になると上流域の降雨によって増水し、水が引くと肥沃な土壌を残す。このため「エジプトはナイルの賜物(ギリシャの歴史家、ヘロドトスのことば)」といわれ、豊かな農業が営まれ、人々は多数の小国家(ノモス)ごとにまとまって暮らしていた。やがて、これらのノモスはナイル河谷の上エジプトとデルタ地帯の下エジプトの二つの王権のもとにまとめられたが、前3000年ごろ、上下エジプトを統一した王国が成立した。メンフィスを都として、王はファラオとよばれ、その家系(王朝)は交替をくりかえした。

古王国時代は外部から孤立していたが、強力な王権を誇り、官僚制が発達した。その後、王権がおとろえ、中王国時代になると、都はテーベに移った。このころには、シリアやクレタ島などとさかんに通商し、紅海沿岸地帯にも進出した。宗教においては、動物神への信仰がさかんで、多神教であった。古王国時代には、ファラオは主神たる太陽神ラーの化身として崇められ、その絶大な権力は巨大なピラミッドに象徴される。中王国時代には、テーベの守護神アメンが主神となり、新王国時代には、ラーと結びついてアメン=ラーの進行が広まった。エジプト人は来世信仰をもち、ミイラをつくり、「死者の書」に安らぎを求めた。彼らが使用した象形文字はヒエログリフ(神聖文字)とよばれ、後にはこれを簡略にしたデモティック(民衆文字)がつくられた。さらに、実用性のある学識を追求し、測量術や医学、天文学、数学などに優れていた。暦は1年を365日とする太陽暦を用い、それは今日の暦のもととなっている。エジプトでは、中王国時代の末にシリアの諸民族の混成集団であるヒクソスが馬と戦車をもって侵入し、異民族支配下での混乱が生じた。前16世紀になると、エジプト人による再統一がなされ、この新王国時代には、ヒクソスの軍事技術がとりいれられ、シリアにまで進出して、ミタンニやヒッタイトとも抗争を重ねた。

この間アメンホテプ4世は神官勢力のはびこるテーベからアマルナに都を移し、アトン神を唯一神とする宗教改革を断行し、自らをイクナトーン(アトンにとって有用なる者の意)と称した。しかし、王の死後、改革は挫折し、古来のアメン神信仰に復帰した。その後、ラメセス2世の治世に繁栄期を迎え、建築活動がさかんであったが、オリエントの全域が鉄器時代に入ると、鉄資源の不足のためエジプトは衰退していった。
ヘブライ人と一神教
オリエント世界では、多くの神々が奉じられていた。のちのギリシアやローマの世界でも、人々は多神教を自明のものと考えていた。神々の姿は彫刻に残され、今日では世界の博物館に飾られている。このような神々の存在を否定して、唯一の神しかいないことを主張したのが一神教である。オリエントの諸民族の中でヘブライ人だけが一神教を信じた民族である。彼らは預言者モーセに率いられてエジプトを脱出した伝承をもち、その脱出を導いたのが唯一神ヤハウェであると信じていた(出エジプト)。ヘブライ人の王国が分裂したのち、北のイスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、南のユダ王国も新バビロニアに滅ぼされたが、その際多くの人々が強制移住させられた(バビロン捕囚)。こうした受難の歴史の中で、唯一神への信仰と民族の結束を説く預言者があいついであらわれ、ユダヤ人だけが救われるという選民思想や救世主(メシア)を待望する信仰をもつユダヤ教が形成された。ユダヤ教は神を天地万物の創造主とする「創世記」などの聖典を生みだし、それらはのちのキリスト教やイスラーム教にも受けつがれた。これらの聖典は、キリスト教では「旧約聖書」とよばれるが、唯一神をあがめるこれら3つの宗教にとって共通の聖典となっている。

多神教 (メソポタミア):メソポタミア文明のシュメール人と、アムル人やアッシリア人などセム系民族はそれぞれ、自然神崇拝、あるいは祖先崇拝から始まったと思われる多神教信仰を持っていた。シュメール人ははじめ、天空神アン(アヌ)、大気(風)の神エンリル、地の神を意味し知恵を司るエンキ(エア)など7神を持っていたが、灌漑農耕が広がった頃からイシュタル神という豊饒と戦争を司る地母神(女神)が神々の中心となった(ギリシアのアフロディテ、ローマのヴィーナスにつながる神である)。また都市ごとに守護神を持っていた。ついでアムル人の建てたバビロンの守護神であったマルドゥク神が、バビロン第一王朝の成立とともにメソポタミアの最高神とされるようになった。 マルドゥク神:メソポタミアが統一されたバビロン第一王朝の時代に、バビロンの都市神として多くの神々の中の最高神としてあがめられた神。
マルドゥク神はシュメール起源の天の神々の主アヌ(アン)と天地の主エンリル神と知恵の神エンキ(エア)の三神が、エンキの長子のマルドゥクに「神々の主権と地上の支配権」を授与したという物語ができあがり、前2000年紀後半、ハンムラビ王によって最盛期をむかえる古バビロニア(バビロン第一王朝)の時代には、首都バビロンの都市神マルドゥクがメソポタミアの最高神として祭られるようになった。神々の地位の変動には都市の興亡が繁栄している。

多神教から一神教へ:エジプトでは太陽神ラー(アメン=ラー)を中心とする多神教であった。多神教が支配的であったオリエント世界に一神教を初めてもたらしたのは、ヘブライ人のヤハウェ神信仰であった。またエジプトでも新王国のアメンホテプ4世はアトン神という唯一神への信仰を国民に強制したが、それは一神教革命としての宗教改革(アマルナ革命)とされている。エジプトでは一神教は定着せず、それ以前のアメン=ラー神を中心とする多神教に戻ったが、モーゼに率いられたヘブライ人がエジプトから脱出したという伝承の背景に、一神教が認められなかったことがあるのではないかという見解もある。また一神教は前15世紀ごろのオリエント世界の統一の動きという政治的な流れの中で、アルファベットという表音文字の普及とともに民族を越えた普遍的な世界観を生み出していくこととなったと考えられる。




一神教の成立とオリエント世界
オリエントとは、ヨーロッパから見て「日出るところ」を意味する。そこは西アジアからアフリカ北東部一帯に広がり、陽光にあふれ、高温であるが、雨が少なく乾燥している。中心地域は肥沃な大河流域で、東と北には山岳地帯があり、南と西には砂漠が広がっている。大河に恵まれたメソポタミアとエジプトでは、灌漑農業が営まれ、青銅器が使用されるようになり、前4千年紀には都市文明が成立する。やがて前3千年紀後半には、周辺地域にも都市文明は広がり、セム語系の人々を中心にオリエント世界という文明圏が姿を現した。それらは都市国家や王国をなし、強大な王権による民衆の支配が通例であった。これらの文明圏の影響は、海を越えてエーゲ海の沿岸地方や島々に及ぶことになる。前2千年紀になると、この豊かな文明世界にインド=ヨーロッパ語系の諸族があいついで南下してきた。オリエント一体で諸勢力がひしめきあい、それらの目まぐるしい興亡の歴史がつづいた。それとともに、大河流域の両翼にはさまれたシリア・パレスチナ地方では、諸勢力を仲介する商業貿易が活発になってくる。海上交易も発展し、東地中海の海域を結ぶ世界が形成されるようになる。前1千年紀には、フェニキア人などの交易活動がさかんになり、地中海全域に文明がもたらされた。また、アラム人などの活躍によってオリエント文明の影響はイラン高原から中央アジアにまで及んでいる。このような拡大した文明圏の大部分を支配したのが、まずアッシリア帝国であり、次いでペルシア帝国であった。エーゲ海沿岸地域は平地が狭く、背後には山々が切り立っている。そこに住むギリシャ人はオリエントの影響下に独自の文明を開化させた。数多くの都市国家が成立し、そこでは強大な王権が生まれにくかった。この社会ではぐくまれた文化は、後世の西洋文化に大きな影響を及ぼしたことから古典文明とよばれている。それは、やがてヘレニズム文明として、地中海全域からインダス川にいたる地域に広がることになる。
都市の出現:
各地に農業が広がり、やがて生産物が増大すると、人口が増え、各地域間で物資の交換が繰りひろげられるようになる。それと共に商人や職人があらわれ、交易の拠点には都市が生まれた。これらの都市の出現はおおよそ前4千年紀のことであり、アジアのいくつかの地域ではじまっている。とりわけオリエントのような乾燥地域では、大河の沿岸に都市が発展し、その周辺で灌漑農業が営まれ、豊かな農業地帯が広がった。これらの都市は城壁で囲まれ、神殿が建てられて政治の中心地となるものもあった。都市には、商人や職人のほかに、祭司をつかさどる神官や防衛のための戦士がいたが、神官や戦士がしだいに勢力を強め、冨を蓄えて、都市の権力を握った。彼らは支配階級をなし、彼らに従属する人々との階級の文化が明らかになった。それとともに、都市は周辺の集落を支配下におさめて、都市国家に成長した。
  都市が生まれたころ、青銅器が使用されるようになる。金属器時代のはじまりであった。西アジアでは、当初は、斧や刀剣としてつくられ、やがて容器、装身具、留針としても用いられるようになった。さらに、神意をうかがう祭祀や財政・会計事務のために文字が発達したが、それは人類にとって大きな発明であった。支配階級の間では、権力や富を誇示するものとして美術・工芸品がもてはやされた。これら都市生活のなかで、諸文化が融合した中から生み出された生活様式などを文明とよぶ。文明は、風土や環境のちがいをこえて様々な地域に伝えられていった。
エジプト文明
ナイル川は、毎年夏になると上流域の降雨によって増水し、水が引くと肥沃な土壌を残す。このため「エジプトはナイルの賜物(ギリシャの歴史家、ヘロドトスのことば)」といわれ、豊かな農業が営まれ、人々は多数の小国家(ノモス)ごとにまとまって暮らしていた。やがて、これらのノモスはナイル河谷の上エジプトとデルタ地帯の下エジプトの二つの王権のもとにまとめられたが、前3000年ごろ、上下エジプトを統一した王国が成立した。メンフィスを都として、王はファラオとよばれ、その家系(王朝)は交替をくりかえした。古王国時代は外部から孤立していたが、強力な王権を誇り、官僚制が発達した。その後、王権がおとろえ、中王国時代になると、都はテーベに移った。このころには、シリアやクレタ島などとさかんに通商し、紅海沿岸地帯にも進出した。宗教においては、動物神への信仰がさかんで、多神教であった。古王国時代には、ファラオは主神たる太陽神ラーの化身として崇められ、その絶大な権力は巨大なピラミッドに象徴される。中王国時代には、テーベの守護神アメンが主神となり、新王国時代には、ラーと結びついてアメン=ラーの進行が広まった。エジプト人は来世信仰をもち、ミイラをつくり、「死者の書」に安らぎを求めた。彼らが使用した象形文字はヒエログリフ(神聖文字)とよばれ、後にはこれを簡略にしたデモティック(民衆文字)がつくられた。さらに、実用性のある学識を追求し、測量術や医学、天文学、数学などに優れていた。暦は1年を365日とする太陽暦を用い、それは今日の暦のもととなっている。エジプトでは、中王国時代の末にシリアの諸民族の混成集団であるヒクソスが馬と戦車をもって侵入し、異民族支配下での混乱が生じた。前16世紀になると、エジプト人による再統一がなされ、この新王国時代には、ヒクソスの軍事技術がとりいれられ、シリアにまで進出して、ミタンニやヒッタイトとも抗争を重ねた。この間アメンホテプ4世は神官勢力のはびこるテーベからアマルナに都を移し、アトン神を唯一神とする宗教改革を断行し、自らをイクナトーン(アトンにとって有用なる者の意)と称した。しかし、王の死後、改革は挫折し、古来のアメン神信仰に復帰した。その後、ラメセス2世の治世に繁栄期を迎え、建築活動がさかんであったが、オリエントの全域が鉄器時代に入ると、鉄資源の不足のためエジプトは衰退していった。
ヘブライ人と一神教
オリエント世界では、多くの神々が奉じられていた。のちのギリシアやローマの世界でも、人々は多神教を自明のものと考えていた。神々の姿は彫刻に残され、今日では世界の博物館に飾られている。このような神々の存在を否定して、唯一の神しかいないことを主張したのが一神教である。オリエントの諸民族の中でヘブライ人だけが一神教を信じた民族である。彼らは預言者モーセに率いられてエジプトを脱出した伝承をもち、その脱出を導いたのが唯一神ヤハウェであると信じていた(出エジプト)。ヘブライ人の王国が分裂したのち、北のイスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、南のユダ王国も新バビロニアに滅ぼされたが、その際多くの人々が強制移住させられた(バビロン捕囚)。こうした受難の歴史の中で、唯一神への信仰と民族の結束を説く預言者があいついであらわれ、ユダヤ人だけが救われるという選民思想や救世主(メシア)を待望する信仰をもつユダヤ教が形成された。ユダヤ教は神を天地万物の創造主とする「創世記」などの聖典を生みだし、それらはのちのキリスト教やイスラーム教にも受けつがれた。これらの聖典は、キリスト教では「旧約聖書」とよばれるが、唯一神をあがめるこれら3つの宗教にとって共通の聖典となっている。
多神教 (メソポタミア):メソポタミア文明のシュメール人と、アムル人やアッシリア人などセム系民族はそれぞれ、自然神崇拝、あるいは祖先崇拝から始まったと思われる多神教信仰を持っていた。シュメール人ははじめ、天空神アン(アヌ)、大気(風)の神エンリル、地の神を意味し知恵を司るエンキ(エア)など7神を持っていたが、灌漑農耕が広がった頃からイシュタル神という豊饒と戦争を司る地母神(女神)が神々の中心となった(ギリシアのアフロディテ、ローマのヴィーナスにつながる神である)。また都市ごとに守護神を持っていた。ついでアムル人の建てたバビロンの守護神であったマルドゥク神が、バビロン第一王朝の成立とともにメソポタミアの最高神とされるようになった。 マルドゥク神:メソポタミアが統一されたバビロン第一王朝の時代に、バビロンの都市神として多くの神々の中の最高神としてあがめられた神。
マルドゥク神はシュメール起源の天の神々の主アヌ(アン)と天地の主エンリル神と知恵の神エンキ(エア)の三神が、エンキの長子のマルドゥクに「神々の主権と地上の支配権」を授与したという物語ができあがり、前2000年紀後半、ハンムラビ王によって最盛期をむかえる古バビロニア(バビロン第一王朝)の時代には、首都バビロンの都市神マルドゥクがメソポタミアの最高神として祭られるようになった。神々の地位の変動には都市の興亡が繁栄している。

多神教から一神教へ:エジプトでは太陽神ラー(アメン=ラー)を中心とする多神教であった。多神教が支配的であったオリエント世界に一神教を初めてもたらしたのは、ヘブライ人のヤハウェ神信仰であった。またエジプトでも新王国のアメンホテプ4世はアトン神という唯一神への信仰を国民に強制したが、それは一神教革命としての宗教改革(アマルナ革命)とされている。エジプトでは一神教は定着せず、それ以前のアメン=ラー神を中心とする多神教に戻ったが、モーゼに率いられたヘブライ人がエジプトから脱出したという伝承の背景に、一神教が認められなかったことがあるのではないかという見解もある。また一神教は前15世紀ごろのオリエント世界の統一の動きという政治的な流れの中で、アルファベットという表音文字の普及とともに民族を越えた普遍的な世界観を生み出していくこととなったと考えられる。




一神教の成立とオリエント世界
オリエントとは、ヨーロッパから見て「日出るところ」を意味する。そこは西アジアからアフリカ北東部一帯に広がり、陽光にあふれ、高温であるが、雨が少なく乾燥している。中心地域は肥沃な大河流域で、東と北には山岳地帯があり、南と西には砂漠が広がっている。大河に恵まれたメソポタミアとエジプトでは、灌漑農業が営まれ、青銅器が使用されるようになり、前4千年紀には都市文明が成立する。やがて前3千年紀後半には、周辺地域にも都市文明は広がり、セム語系の人々を中心にオリエント世界という文明圏が姿を現した。それらは都市国家や王国をなし、強大な王権による民衆の支配が通例であった。これらの文明圏の影響は、海を越えてエーゲ海の沿岸地方や島々に及ぶことになる。前2千年紀になると、この豊かな文明世界にインド=ヨーロッパ語系の諸族があいついで南下してきた。オリエント一体で諸勢力がひしめきあい、それらの目まぐるしい興亡の歴史がつづいた。それとともに、大河流域の両翼にはさまれたシリア・パレスチナ地方では、諸勢力を仲介する商業貿易が活発になってくる。海上交易も発展し、東地中海の海域を結ぶ世界が形成されるようになる。前1千年紀には、フェニキア人などの交易活動がさかんになり、地中海全域に文明がもたらされた。また、アラム人などの活躍によってオリエント文明の影響はイラン高原から中央アジアにまで及んでいる。このような拡大した文明圏の大部分を支配したのが、まずアッシリア帝国であり、次いでペルシア帝国であった。エーゲ海沿岸地域は平地が狭く、背後には山々が切り立っている。そこに住むギリシャ人はオリエントの影響下に独自の文明を開化させた。数多くの都市国家が成立し、そこでは強大な王権が生まれにくかった。この社会ではぐくまれた文化は、後世の西洋文化に大きな影響を及ぼしたことから古典文明とよばれている。それは、やがてヘレニズム文明として、地中海全域からインダス川にいたる地域に広がることになる。
都市の出現:
各地に農業が広がり、やがて生産物が増大すると、人口が増え、各地域間で物資の交換が繰りひろげられるようになる。それと共に商人や職人があらわれ、交易の拠点には都市が生まれた。これらの都市の出現はおおよそ前4千年紀のことであり、アジアのいくつかの地域ではじまっている。とりわけオリエントのような乾燥地域では、大河の沿岸に都市が発展し、その周辺で灌漑農業が営まれ、豊かな農業地帯が広がった。これらの都市は城壁で囲まれ、神殿が建てられて政治の中心地となるものもあった。都市には、商人や職人のほかに、祭司をつかさどる神官や防衛のための戦士がいたが、神官や戦士がしだいに勢力を強め、冨を蓄えて、都市の権力を握った。彼らは支配階級をなし、彼らに従属する人々との階級の文化が明らかになった。それとともに、都市は周辺の集落を支配下におさめて、都市国家に成長した。
  都市が生まれたころ、青銅器が使用されるようになる。金属器時代のはじまりであった。西アジアでは、当初は、斧や刀剣としてつくられ、やがて容器、装身具、留針としても用いられるようになった。さらに、神意をうかがう祭祀や財政・会計事務のために文字が発達したが、それは人類にとって大きな発明であった。支配階級の間では、権力や富を誇示するものとして美術・工芸品がもてはやされた。これら都市生活のなかで、諸文化が融合した中から生み出された生活様式などを文明とよぶ。文明は、風土や環境のちがいをこえて様々な地域に伝えられていった。
エジプト文明
ナイル川は、毎年夏になると上流域の降雨によって増水し、水が引くと肥沃な土壌を残す。このため「エジプトはナイルの賜物(ギリシャの歴史家、ヘロドトスのことば)」といわれ、豊かな農業が営まれ、人々は多数の小国家(ノモス)ごとにまとまって暮らしていた。やがて、これらのノモスはナイル河谷の上エジプトとデルタ地帯の下エジプトの二つの王権のもとにまとめられたが、前3000年ごろ、上下エジプトを統一した王国が成立した。メンフィスを都として、王はファラオとよばれ、その家系(王朝)は交替をくりかえした。古王国時代は外部から孤立していたが、強力な王権を誇り、官僚制が発達した。その後、王権がおとろえ、中王国時代になると、都はテーベに移った。このころには、シリアやクレタ島などとさかんに通商し、紅海沿岸地帯にも進出した。宗教においては、動物神への信仰がさかんで、多神教であった。古王国時代には、ファラオは主神たる太陽神ラーの化身として崇められ、その絶大な権力は巨大なピラミッドに象徴される。中王国時代には、テーベの守護神アメンが主神となり、新王国時代には、ラーと結びついてアメン=ラーの進行が広まった。エジプト人は来世信仰をもち、ミイラをつくり、「死者の書」に安らぎを求めた。彼らが使用した象形文字はヒエログリフ(神聖文字)とよばれ、後にはこれを簡略にしたデモティック(民衆文字)がつくられた。さらに、実用性のある学識を追求し、測量術や医学、天文学、数学などに優れていた。暦は1年を365日とする太陽暦を用い、それは今日の暦のもととなっている。エジプトでは、中王国時代の末にシリアの諸民族の混成集団であるヒクソスが馬と戦車をもって侵入し、異民族支配下での混乱が生じた。前16世紀になると、エジプト人による再統一がなされ、この新王国時代には、ヒクソスの軍事技術がとりいれられ、シリアにまで進出して、ミタンニやヒッタイトとも抗争を重ねた。この間アメンホテプ4世は神官勢力のはびこるテーベからアマルナに都を移し、アトン神を唯一神とする宗教改革を断行し、自らをイクナトーン(アトンにとって有用なる者の意)と称した。しかし、王の死後、改革は挫折し、古来のアメン神信仰に復帰した。その後、ラメセス2世の治世に繁栄期を迎え、建築活動がさかんであったが、オリエントの全域が鉄器時代に入ると、鉄資源の不足のためエジプトは衰退していった。
ヘブライ人と一神教
オリエント世界では、多くの神々が奉じられていた。のちのギリシアやローマの世界でも、人々は多神教を自明のものと考えていた。神々の姿は彫刻に残され、今日では世界の博物館に飾られている。このような神々の存在を否定して、唯一の神しかいないことを主張したのが一神教である。オリエントの諸民族の中でヘブライ人だけが一神教を信じた民族である。彼らは預言者モーセに率いられてエジプトを脱出した伝承をもち、その脱出を導いたのが唯一神ヤハウェであると信じていた(出エジプト)。ヘブライ人の王国が分裂したのち、北のイスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、南のユダ王国も新バビロニアに滅ぼされたが、その際多くの人々が強制移住させられた(バビロン捕囚)。こうした受難の歴史の中で、唯一神への信仰と民族の結束を説く預言者があいついであらわれ、ユダヤ人だけが救われるという選民思想や救世主(メシア)を待望する信仰をもつユダヤ教が形成された。ユダヤ教は神を天地万物の創造主とする「創世記」などの聖典を生みだし、それらはのちのキリスト教やイスラーム教にも受けつがれた。これらの聖典は、キリスト教では「旧約聖書」とよばれるが、唯一神をあがめるこれら3つの宗教にとって共通の聖典となっている。
多神教 (メソポタミア):メソポタミア文明のシュメール人と、アムル人やアッシリア人などセム系民族はそれぞれ、自然神崇拝、あるいは祖先崇拝から始まったと思われる多神教信仰を持っていた。シュメール人ははじめ、天空神アン(アヌ)、大気(風)の神エンリル、地の神を意味し知恵を司るエンキ(エア)など7神を持っていたが、灌漑農耕が広がった頃からイシュタル神という豊饒と戦争を司る地母神(女神)が神々の中心となった(ギリシアのアフロディテ、ローマのヴィーナスにつながる神である)。また都市ごとに守護神を持っていた。ついでアムル人の建てたバビロンの守護神であったマルドゥク神が、バビロン第一王朝の成立とともにメソポタミアの最高神とされるようになった。 マルドゥク神:メソポタミアが統一されたバビロン第一王朝の時代に、バビロンの都市神として多くの神々の中の最高神としてあがめられた神。
マルドゥク神はシュメール起源の天の神々の主アヌ(アン)と天地の主エンリル神と知恵の神エンキ(エア)の三神が、エンキの長子のマルドゥクに「神々の主権と地上の支配権」を授与したという物語ができあがり、前2000年紀後半、ハンムラビ王によって最盛期をむかえる古バビロニア(バビロン第一王朝)の時代には、首都バビロンの都市神マルドゥクがメソポタミアの最高神として祭られるようになった。神々の地位の変動には都市の興亡が繁栄している。

多神教から一神教へ:エジプトでは太陽神ラー(アメン=ラー)を中心とする多神教であった。多神教が支配的であったオリエント世界に一神教を初めてもたらしたのは、ヘブライ人のヤハウェ神信仰であった。またエジプトでも新王国のアメンホテプ4世はアトン神という唯一神への信仰を国民に強制したが、それは一神教革命としての宗教改革(アマルナ革命)とされている。エジプトでは一神教は定着せず、それ以前のアメン=ラー神を中心とする多神教に戻ったが、モーゼに率いられたヘブライ人がエジプトから脱出したという伝承の背景に、一神教が認められなかったことがあるのではないかという見解もある。また一神教は前15世紀ごろのオリエント世界の統一の動きという政治的な流れの中で、アルファベットという表音文字の普及とともに民族を越えた普遍的な世界観を生み出していくこととなったと考えられる。




一神教の成立とオリエント世界
オリエントとは、ヨーロッパから見て「日出るところ」を意味する。そこは西アジアからアフリカ北東部一帯に広がり、陽光にあふれ、高温であるが、雨が少なく乾燥している。中心地域は肥沃な大河流域で、東と北には山岳地帯があり、南と西には砂漠が広がっている。大河に恵まれたメソポタミアとエジプトでは、灌漑農業が営まれ、青銅器が使用されるようになり、前4千年紀には都市文明が成立する。やがて前3千年紀後半には、周辺地域にも都市文明は広がり、セム語系の人々を中心にオリエント世界という文明圏が姿を現した。それらは都市国家や王国をなし、強大な王権による民衆の支配が通例であった。これらの文明圏の影響は、海を越えてエーゲ海の沿岸地方や島々に及ぶことになる。前2千年紀になると、この豊かな文明世界にインド=ヨーロッパ語系の諸族があいついで南下してきた。オリエント一体で諸勢力がひしめきあい、それらの目まぐるしい興亡の歴史がつづいた。それとともに、大河流域の両翼にはさまれたシリア・パレスチナ地方では、諸勢力を仲介する商業貿易が活発になってくる。海上交易も発展し、東地中海の海域を結ぶ世界が形成されるようになる。前1千年紀には、フェニキア人などの交易活動がさかんになり、地中海全域に文明がもたらされた。また、アラム人などの活躍によってオリエント文明の影響はイラン高原から中央アジアにまで及んでいる。このような拡大した文明圏の大部分を支配したのが、まずアッシリア帝国であり、次いでペルシア帝国であった。エーゲ海沿岸地域は平地が狭く、背後には山々が切り立っている。そこに住むギリシャ人はオリエントの影響下に独自の文明を開化させた。数多くの都市国家が成立し、そこでは強大な王権が生まれにくかった。この社会ではぐくまれた文化は、後世の西洋文化に大きな影響を及ぼしたことから古典文明とよばれている。それは、やがてヘレニズム文明として、地中海全域からインダス川にいたる地域に広がることになる。
都市の出現:
各地に農業が広がり、やがて生産物が増大すると、人口が増え、各地域間で物資の交換が繰りひろげられるようになる。それと共に商人や職人があらわれ、交易の拠点には都市が生まれた。これらの都市の出現はおおよそ前4千年紀のことであり、アジアのいくつかの地域ではじまっている。とりわけオリエントのような乾燥地域では、大河の沿岸に都市が発展し、その周辺で灌漑農業が営まれ、豊かな農業地帯が広がった。これらの都市は城壁で囲まれ、神殿が建てられて政治の中心地となるものもあった。都市には、商人や職人のほかに、祭司をつかさどる神官や防衛のための戦士がいたが、神官や戦士がしだいに勢力を強め、冨を蓄えて、都市の権力を握った。彼らは支配階級をなし、彼らに従属する人々との階級の文化が明らかになった。それとともに、都市は周辺の集落を支配下におさめて、都市国家に成長した。
  都市が生まれたころ、青銅器が使用されるようになる。金属器時代のはじまりであった。西アジアでは、当初は、斧や刀剣としてつくられ、やがて容器、装身具、留針としても用いられるようになった。さらに、神意をうかがう祭祀や財政・会計事務のために文字が発達したが、それは人類にとって大きな発明であった。支配階級の間では、権力や富を誇示するものとして美術・工芸品がもてはやされた。これら都市生活のなかで、諸文化が融合した中から生み出された生活様式などを文明とよぶ。文明は、風土や環境のちがいをこえて様々な地域に伝えられていった。
エジプト文明
ナイル川は、毎年夏になると上流域の降雨によって増水し、水が引くと肥沃な土壌を残す。このため「エジプトはナイルの賜物(ギリシャの歴史家、ヘロドトスのことば)」といわれ、豊かな農業が営まれ、人々は多数の小国家(ノモス)ごとにまとまって暮らしていた。やがて、これらのノモスはナイル河谷の上エジプトとデルタ地帯の下エジプトの二つの王権のもとにまとめられたが、前3000年ごろ、上下エジプトを統一した王国が成立した。メンフィスを都として、王はファラオとよばれ、その家系(王朝)は交替をくりかえした。古王国時代は外部から孤立していたが、強力な王権を誇り、官僚制が発達した。その後、王権がおとろえ、中王国時代になると、都はテーベに移った。このころには、シリアやクレタ島などとさかんに通商し、紅海沿岸地帯にも進出した。宗教においては、動物神への信仰がさかんで、多神教であった。古王国時代には、ファラオは主神たる太陽神ラーの化身として崇められ、その絶大な権力は巨大なピラミッドに象徴される。中王国時代には、テーベの守護神アメンが主神となり、新王国時代には、ラーと結びついてアメン=ラーの進行が広まった。エジプト人は来世信仰をもち、ミイラをつくり、「死者の書」に安らぎを求めた。彼らが使用した象形文字はヒエログリフ(神聖文字)とよばれ、後にはこれを簡略にしたデモティック(民衆文字)がつくられた。さらに、実用性のある学識を追求し、測量術や医学、天文学、数学などに優れていた。暦は1年を365日とする太陽暦を用い、それは今日の暦のもととなっている。エジプトでは、中王国時代の末にシリアの諸民族の混成集団であるヒクソスが馬と戦車をもって侵入し、異民族支配下での混乱が生じた。前16世紀になると、エジプト人による再統一がなされ、この新王国時代には、ヒクソスの軍事技術がとりいれられ、シリアにまで進出して、ミタンニやヒッタイトとも抗争を重ねた。この間アメンホテプ4世は神官勢力のはびこるテーベからアマルナに都を移し、アトン神を唯一神とする宗教改革を断行し、自らをイクナトーン(アトンにとって有用なる者の意)と称した。しかし、王の死後、改革は挫折し、古来のアメン神信仰に復帰した。その後、ラメセス2世の治世に繁栄期を迎え、建築活動がさかんであったが、オリエントの全域が鉄器時代に入ると、鉄資源の不足のためエジプトは衰退していった。
ヘブライ人と一神教
オリエント世界では、多くの神々が奉じられていた。のちのギリシアやローマの世界でも、人々は多神教を自明のものと考えていた。神々の姿は彫刻に残され、今日では世界の博物館に飾られている。このような神々の存在を否定して、唯一の神しかいないことを主張したのが一神教である。オリエントの諸民族の中でヘブライ人だけが一神教を信じた民族である。彼らは預言者モーセに率いられてエジプトを脱出した伝承をもち、その脱出を導いたのが唯一神ヤハウェであると信じていた(出エジプト)。ヘブライ人の王国が分裂したのち、北のイスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、南のユダ王国も新バビロニアに滅ぼされたが、その際多くの人々が強制移住させられた(バビロン捕囚)。こうした受難の歴史の中で、唯一神への信仰と民族の結束を説く預言者があいついであらわれ、ユダヤ人だけが救われるという選民思想や救世主(メシア)を待望する信仰をもつユダヤ教が形成された。ユダヤ教は神を天地万物の創造主とする「創世記」などの聖典を生みだし、それらはのちのキリスト教やイスラーム教にも受けつがれた。これらの聖典は、キリスト教では「旧約聖書」とよばれるが、唯一神をあがめるこれら3つの宗教にとって共通の聖典となっている。
多神教 (メソポタミア):メソポタミア文明のシュメール人と、アムル人やアッシリア人などセム系民族はそれぞれ、自然神崇拝、あるいは祖先崇拝から始まったと思われる多神教信仰を持っていた。シュメール人ははじめ、天空神アン(アヌ)、大気(風)の神エンリル、地の神を意味し知恵を司るエンキ(エア)など7神を持っていたが、灌漑農耕が広がった頃からイシュタル神という豊饒と戦争を司る地母神(女神)が神々の中心となった(ギリシアのアフロディテ、ローマのヴィーナスにつながる神である)。また都市ごとに守護神を持っていた。ついでアムル人の建てたバビロンの守護神であったマルドゥク神が、バビロン第一王朝の成立とともにメソポタミアの最高神とされるようになった。 マルドゥク神:メソポタミアが統一されたバビロン第一王朝の時代に、バビロンの都市神として多くの神々の中の最高神としてあがめられた神。
マルドゥク神はシュメール起源の天の神々の主アヌ(アン)と天地の主エンリル神と知恵の神エンキ(エア)の三神が、エンキの長子のマルドゥクに「神々の主権と地上の支配権」を授与したという物語ができあがり、前2000年紀後半、ハンムラビ王によって最盛期をむかえる古バビロニア(バビロン第一王朝)の時代には、首都バビロンの都市神マルドゥクがメソポタミアの最高神として祭られるようになった。神々の地位の変動には都市の興亡が繁栄している。

多神教から一神教へ:エジプトでは太陽神ラー(アメン=ラー)を中心とする多神教であった。多神教が支配的であったオリエント世界に一神教を初めてもたらしたのは、ヘブライ人のヤハウェ神信仰であった。またエジプトでも新王国のアメンホテプ4世はアトン神という唯一神への信仰を国民に強制したが、それは一神教革命としての宗教改革(アマルナ革命)とされている。エジプトでは一神教は定着せず、それ以前のアメン=ラー神を中心とする多神教に戻ったが、モーゼに率いられたヘブライ人がエジプトから脱出したという伝承の背景に、一神教が認められなかったことがあるのではないかという見解もある。また一神教は前15世紀ごろのオリエント世界の統一の動きという政治的な流れの中で、アルファベットという表音文字の普及とともに民族を越えた普遍的な世界観を生み出していくこととなったと考えられる。




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