キリスト教神学で読み解く共産主義
佐藤優(さとうまさる)
エンゲルスが信仰を捨てたと言っても、問題は、その捨てた信仰の内容で、更に信仰を捨てた後に、何を信じていたか、あるいは何も信じなくなったかという問題である。廣松(渉)は、これをキリスト教からの離脱ととらえるが、筆者(佐藤 優)は、ここに廣松の大いなる誤読があると考える。
結論を頭出しするならば、既成の教会、キリスト教という宗教を放棄しても、エンゲルスの発想はキリスト教的なのである。筆者の理解では、人間には本来の形態があり、そこに回帰するべきであるという疎外論的構成をエンゲルスは、生涯もっていたのである。
日本人はユダヤ教の影響力をよく理解していない。2017年1月21日、米国のワシントンにおいて、ドナルド・トランプ新大統領は就任演説でこんなことを述べた。
私たちは古い同盟関係を強化し、新たな同盟を作ります。そして、文明社会を結束させ、過激なイスラムのテロを地球から完全に根絶します。私たちの政治の根本にあるのは、アメリカに対する完全な忠誠心です。そして、国への忠誠心を通して、私たちはお互いに対する誠実さを再発見することになります。もし愛国心に心を開けば、偏見が生まれる余地はありません。聖書は「神の民が団結して生きていることができたら、どれほどすばらしいことでしょうか」と私たちに伝えています。私たちは心を開いて語り合い、意見が合わないことについては率直に議論し、しかし、常に団結することを追い求めなければなりません。アメリカが団結すれば、誰も、アメリカが前に進むことを止めることはできないでしょう。そこにおそれがあってはなりません。私たちは守られ、そして守られ続けます。私たちは、すばらしい軍隊、そして、法の執行機関で働くすばらしい男性、女性に、守られています。そして最も大切なことですが、私たちは神によって守られています。(2017年1月21日「NHK
NEWS WEB」)
ここでトランプ大統領が引用した「神の民が団結して生きていることができたら、どれほどすばらしいことでしょうか」(how good and pleasant
it is when God’s people live together in unity )という聖書の言葉は、日本聖書刊行会の 新改訳 聖書では、「見よ、兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。」と訳されている。
全文は以下の通り。
詩篇 133篇
都上りの歌。ダビデによる
見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。
それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。
それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。
ヤーウェ(神)の教えに基づく世界支配は、シオン(イスラエル)から広められるという意味だ。ダビデ王を理想としたメシアニズムを典型的に示す内容である。
トランプ大統領は、キリスト教徒のみが聖典とする新約聖書ではなく、キリスト教徒、ユダヤ教徒の両者が聖典地尾する旧約聖書から、あえて引用し、イスラエルと全世界のユダヤ人に向かって、「私はあなたたちと価値観を共有しています」というメッセージを送ったのだ。トランプ政権の外交は、親イスラエル政策を基調とすることになろう。
さて、20世紀の歴史を振り返ったときに、ソ連の誕生と崩壊が大きな意味を持つことについては、誰もが同意すると思う。ソ連は、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが提唱した共産主義理論に基づいて構築された国家であった。
もっともソ連型社会主義(共産主義)は、マルクスとエンゲルスの理論をロシアの現実に創造的に適用することによって実現したというのは建前にすぎず、実際には、ロシア正教の異端思想と、民衆の受動性を徹底的に利用して、レーニン、トロツキー、スターリンらのボリシェビキ(ロシア社会民主労働党の左派)が権力を奪取した帝国の再編に過ぎないという見方もある。私の見解もそれに近いが、ソ連が成立していなかったらば、世界的レベルでマルクス主義があれだけ広範な影響を与えることはなかった。
マルクスは、ユダヤ教から改宗したプロテスタントのキリスト教徒だ。マルクスは二十代前半でキリスト教と訣別し、無神論者になった。しかし、マルクスには、ユダヤ教、キリスト教の終末論が、唯物論的に転換して残った。終末論とは、歴史に終わりがあるという思想だ。ギリシャ語に「テロス(telos)」という言葉がある。この言葉は、「終わり」「目的」「完成」を意味する。テロスについて考察することが終末論の中心的課題になる。ユダヤ教では、ユダヤ人が律法を守っていれば、破壊されてしまったエルサレムの神殿がいつか再建され、審判が行われ、そこで正しいとされた人々は、まったく新しい秩序の中で幸せな生活を送ることができる。
旧約聖書にはこんな記述がある。
見よ。わたしは命じて、ふるいにかけるように、すべての国々の間でイスラエルの家をふるい、一つの石ころも地に落とさない。
わたしの民の中の罪人はみな、剣で死ぬ。彼らは『わざわいは私たちに近づかない。私たちまでは及ばない』と言っている。
その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを建て直す。(アモス書 9章9-11節)
キリスト教の場合は、天に昇っているキリストが再び地上に現れ(神学用語では再臨という)、生きている人々と、死んだ人々を復活させ、一人ひとり審判に付して、選ばれた人は「永遠の命」を得て、「神の国」に入る。
マルクス主語の場合、資本主義社会では、資本家階級と地主階級によって抑圧されているが、実は選ばれた階級であるプロレタリアート(労働者階級)が革命を起こして共産主義社会を建設する。そこには支配するものもいなければ支配されるものもいない。抑圧対被抑圧という二項対立の図式が脱構築される。人間が本来の人間性を回復して生きることになる。そして、共産主義社会では、「人々は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る。」という原則が実現される。
このような、疎外された階級社会の人間が、本来の姿に戻るという考え方が疎外論だ。世界的に見て、疎外論がマルクス、エンゲルスの共産主義解釈において支配的な言説だ。
これに対して根源的な意義申したてを行ったのが、日本の傑出したマルクス主義哲学者である廣松 渉(ひろまつ わたる 1933年8月11日~1994年5月22日)だ。廣松は、疎外論ではなく、物象化論を発見したことが、マルクスとエンゲルスの共産主義論の特徴であると説いた。しかも、共産主義理論については、エンゲルスの方がマルクスよりも先に到達したと主張した。
ある時期、物象化論は、若い世代の人々に強い影響を与えた。特に1960年代末の全共闘をはじめとする新左翼の運動に強い影響を与えた。
私は、廣松物象化論だけではなく、エンゲルスとキリスト教の関係についても、整理して考えることができるようになった。現代の危機を深く理解するため、疎外論と物象化論の差異を理解することはとても重要である。哲学と現実を繋ぐことがとても重要だ。