聖書の非神話化について
ハーレイ博士は「長年にわたって、全精力を聖書暗唱会に費やされた。そしてこの会の初めには必ず聖書の歴史的背景についての緒論的な解説を行った。この珍しい働きのために、彼は太平洋から大西洋に至る全米35州からの招きで引っ張りだこになった。バイブル・リサイクルと呼ばれるこの聖書暗唱会は、聖書についての、長年にわたる、最も骨の折れる勉強の結果生まれた輝かしい結晶である。この働きに関連して、ハーレイ博士は、1924年バイブル・リサイクルの解説を16ページのパンフレットに収めて発行した。これがハーレイの「聖書ハンドブック」の始まりである。
ハーレイの「聖書ハンドブック」の冒頭には、ジョージ・ミュラーの言葉が書かれている。「霊的生活の活力は、生活と思想の中で聖書が占める位置に比例する。私はこのことを、54年間の経験から真面目に申し上げる。」「私はすでに聖書を100回も通読したが、そのたびに喜びが増し加えられてきた。何度読んでも、私には新しい本のように思われる。」
ところで「旧約聖書略解」という一冊の本がある。「創世記」について記したのは、松田明三郎氏である。創世記について、松田氏は、伝説ではモーセをもって、5書( 創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記 )の著者としている。もちろん5書そのものには、部分的にはモーセがそれを書いたことが認められているけれども、全体をモーセが書いたとはいわれていない。5書の多くの部分において、モーセは3人称で語られており、時代の背景や、生活状態は、モーセの時代の遊牧民のそれではなく、カナンの農業生活を暗示している。また5書の内には神の名が、あるところではヤハウェ(主)となり、あるところではエロ―ヒーム(神)となっている。更に5書のうちには多くの記事の重複が発見せられる。これらの理由によって、5書はモーセ一人の作でなく、数人の人々によって数代にわたって書かれたいくつかの資料が、最後に一つの意図をもって編集せられたものであることが認められるにいたった。これは五書資料説と称せられるものであって、そこにはJ典、E典、P典、H典、D典の名称によって代表せられる五つの資料が予想せられる。
さて創世記編集に際して使用せられている資料は、前記五つの内、最初の三つJ典、E典、P典である。
例えば、創世記に入っているノアの箱舟についてみてみよう。(6章9節から13節まで)
「 これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤペテを生んだ。
地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らと地とともに滅ぼそうとしている。」(以上新改訳聖書より)
ノアの洪水物語は人類の祖先たちの罪に対する審判と、正義の一家族の救助の記録である。ノアの救われた霊的教訓は、常にキリスト者たちによって認められ、彼らは箱舟を教会の象徴と見なしたのである。バプテスマは箱舟に入ることであり、洪水は審判を意味した。創世記の洪水物語は、J典とP典とから編纂されたものである。
さて、聖書研究について述べてみたい。聖書学は「聖書通論」、「聖書緒論」、「聖書釈義」、「聖書神学」の各分野からなっているが、これらの分野を研究する補助的手段として、「聖書言語学」、「聖書解釈学」、「聖書考古学」、「聖書地理学」、「聖書歴史学」などがある。聖書解釈学は、次の通り説明されている。「いかなる文書もその意味を確定するためには解釈という作業が必要であり、その点で聖書も例外ではない。現代の読者にとって2千年ないしそれ以上の時間的な隔たりとそれに伴う歴史的、文化的な違いを有する聖書の意味を明らかにするのが、聖書解釈学である。聖書が誤りない神の言葉であるということは、聖書を正しく解釈する努力によって実体化されなければならない。その解釈の原則を理論的に問う学問が聖書解釈学である。その原則に従って聖書本文が本来の文脈において持つ意味を明らかにする狭義の解釈と、明らかにされた意味の、現代の読者や聴衆に対する意義(適用)を示す解き明かしにより、広義における解釈が構成される。
聖書解釈は20世紀にはバルトによる解釈、ブルトマンによる解釈、ガーダマー、フックス、エーベリングらの解釈(新解釈学ともいう)、構造主義の解釈、その他の「救済史的解釈」、「正典的解釈」などがあげられる。
このうちブルトマンによる解釈について述べる。ブルトマンは新約聖書の「非神話化」を1941年の夏、第二次世界大戦のドイツで提唱した。彼の発言は、それ以後のキリスト教に計り知ることのできない衝撃を与えた。ここに新しく、主体的、実存的な聖書の読み方が示された。このブルトマンの聖書の実存論的解釈が、現代神学の根本をなすものとなっている。この主張は、科学技術の発達した、現代世界に生きる我々に、知性を犠牲にすることなく、納得できるやり方で、聖書と取り組み、キリスト教を信じ続ける力を与えてくれる。またナチズムとの勇気ある対決や、ハイデッガーやバルトとの深い交流などを通して示される彼の人柄からも、多くのことを教えられる。真理探究と学問への情熱に生き抜いたブルトマンの誠実な姿は人を感動させてやまない。それまでキリスト教に全く接してきたことのない学生を相手にするとき、バルトの神学を教えて、学生たちの心をキリスト教に向けさせる自信は私にはない。しかしブルトマンの思想を伝えてやると、それまでキリスト教に全く興味を持っていなかった多くの学生が、キリスト教がこういうものだったら、自分もキリスト教に納得できると語ってくれたのである。そういう意味でブルトマンの神学は、現代人の受け入れることのできる、現代人のためのキリスト教なのである。そしてブルトマンの非神話化が戦争のさなかに提唱されたということは、戦争というような人間の愚行に揺さぶられることなく、それを超えたものが非神話化ということなのである。これが、現代における正しい聖書の読み方なのであると確信する。
処女懐胎の記事について
処女懐胎(しょじょかいたい)、または処女受胎(しょじょじゅたい)とは、文字通りには処女のまま(つまり男女の交わり無しに)子を宿すことである「処女懐胎とは、普通は、特に聖母マリアによるイエス・キリストの受胎というキリスト教における概念を指す。カトリックなどマリア崇敬をする教会において、処女懐胎の意義は、マリアがヨゼフとの交わりのないままイエスを身篭ったことにある。無原罪の御宿りとともに、マリアの無謬性(誤りのないこと)を強調する。
マリアの懐胎
マリアの処女懐胎が記述されているのは、新約聖書の福音書中では、マタイによる福音書とルカによる福音書である。どちらも聖霊により身ごもったことが記述されている(マタイ伝
1章20節、ルカ伝 1章35節)。処女懐胎の記事は、両福音書が参考にしたマルコ福音書、また、マルコかルカの福音書を知っていたかもしれないヨハネが記した福音書には、言及はない。
マタイ福音書では、大天使のガブリエルの告げる言葉が、七十人訳聖書(ギリシア語訳の旧約聖書)のイザヤ書からそのまま引用されている。
見よ、乙女が身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる
— マタイ伝 1章23節、イザヤ書 7章14節
イエスのダヴィデの子孫という系図はユダヤ人たちのために意図されたものである一方、処女懐胎の物語は異教神話の処女懐胎や神々により妊娠した女性たちの物語に親しんだギリシア・ローマ人の聴衆のために意図されたものと考えられる[3]。
処女懐胎の物語は、イエス・キリストがその誕生から神の子(神性)であったということを明示する意図を持っている。しかし、マリアに関しては全く神聖視していない。マリアを普通の女とみなすのは、マルコやヨハネも同じである。後に、キリスト教が他の地中海世界に広がるに際して、処女信仰や太母神信仰と複雑に絡み合い、カトリックや東方教会ではマリアは聖母として崇敬の対象となり、処女懐胎は最も重要な教理の一つにまでなった。
西欧語では、処女を意味する語が、(大文字にすると)そのまま聖母マリアを指すことが多い。西: La Virgen、仏: la Vierge、英:
the Virginなど。[注釈 2][注釈 3]